日誌

全校

子どもたちの心に救われて

 職員室前にありがとうメッセージのコーナーがあります。満開のカラフルなメッセージカードは、まるで春の花畑を思わせてくれます。メッセージをひとつひとつ読むことにしました。

「笑顔いっぱいの毎日にしてくれてありがとう」

「いつも声をかけてくれてありがとう。前のペア交流楽しかったよ」

「みんなの笑顔に、いつも元気をもらっているよ」

「いつも笑顔で話しかけてくれてありがとう。おかげで自分も笑顔になるよ」

 なんと優しく温かいことばなのでしょう。これらは、すべて下級生に向けた6年生のメッセージです。いつも下級生に親切にお世話をしていた6年生が、あるとき自分も元気で優しくなれていた。そんな成長の自覚が感じられます。

 今、新型コロナウィルスの感染の影響で、さまざまなイベントや集まりが縮小、中止され、世の中はたいへん重苦しいものになっています。そして、そのことは、学校現場にも暗い影を落とし、3月2日より国からの指示で、小中学校が休校措置をとることになりました。

 日本は、東日本大震災をはじめ、震災や台風、竜巻、水害など、たくさんの試練に対して、人々の力で乗り越えてきました。まだ豊橋市には感染者の発表はありませんし、どこまでコロナウィルスの波が来ているかわかりませんが、この苦境をみんなの力で乗り越えていけたらと思います。

 今日まで、学校では、6年生は卒業に向けて、在校生は6年生を送る会に向けて、「ありがとう」の気持ちを、いろいろな形やことば、姿にして表そうと動き出してきました。この優しい温かい気持ちが天に届き、コロナの影を払しょくできればと祈ります。
 保護者の皆様、これまで本校の教育活動に対して、ご理解、ご協力ありがとうございました

ありがとうの種

 あすなろ学級では、13日からあすなろ郵便が始まりました。教室前では、キャップを手にした子どもたちが、ハガキを買おうと行列になっていました。盛況です。今年は、「ありがとういっぱい月間」の企画としてPR委員会とコラボして、黄色のありがとうハガキも販売するそうです。

  2月は、後半に、お世話になった地域や保護者の皆さんを招待して「ありがとう集会」が企画され、その後6年生に感謝する「6年生を送る会」へと続いていきます。2月という厳寒の時期でありながら、ありがとうの言葉と気持ちで心は一気に温かくなるでしょう。

 温かくなるといえば、来年度から完備されるエアコンの工事も大詰めを迎えています。すべてのクラスにエアコンがつけられる大工事でありながら、これだけ静かに進められたのも、訳があります。それは、音がする工事は、土日で行われ、子どもたちの勉強に支障がないように配慮してくれたのです。現場で働く青年の中には、沖縄の石垣島から出稼ぎにきている方もあり、休日も一生懸命働いてくださることにも感謝です。

  書館にもエアコンがつきます。快適な環境で読書が進められると思われますが、よく見てみると、バレンタインや図書委員のお薦めコーナーがあり、エアコンがなくても心温まる環境づくりが、司書さんやボランティアさんの手によってなされています。

  このように、学校には、至るところに「ありがとうの種」が蒔かれているのです。

  「ありがとういっぱい月間」です。私たちは、感謝すること以上に、まず私たちの生活に散りばめられている「ありがとうの種」を見つけることが大切ではないでしょうか。そして、そのお礼を届けることで、ありがとうの花が満開になるといいと思っています。 

笑顔の花

 

  立春を過ぎました。先日芽を出したばかりと思った一年生のチューリップは、葉を広げ始めました。用務員さんらが卒業式に向けて育てているパンジーも、温室で順調に大きくなっています。校庭を歩くと、スイセンの白、菜の花の黄、ツバキやサザンカの赤が、色鮮やかに目に飛び込んできました。一棟前にあるカワヅザクラは、つぼみが開き始め、春の訪れを知らせてくれています。春に向かっての準備が刻々と進んでいるようです。

 わんぱくタイムになると、校舎から一斉に子どもたちが飛び出してきました。運動場の広さは、市内で随一を誇る本校ですが、その運動場が子どもたちで埋め尽くされます。

  今日は、先生とドッジボールをする子、サッカーやバスケットボールに興じる子、おにごっこでボール遊びをする友の間をすり抜けていく子、大イチョウの前の縄跳び台で順番を待ちながら、二重跳びやはやぶさに挑戦する子、ブランコや雲てい、小さ山、スペシャル号の遊び場で体を動かす子と、この広い運動場が所狭ししと、子どもたちは動き回っています。その中には、さきほどの授業とは別人のように笑顔と瞳の輝きを放つ子もいます。カメラを向けると、ピースをしながらポーズをとってくれました。

 このように、春の花のたよりよりも一足先に、校庭では、子どもたちの笑顔の花が満開を迎えています。部活動が廃止され運動不足が懸念される時代の流れで、福岡っ子の元気さ、たくましさにふれ、心がほっとするひと時です。

成長を刻む

 玄関に、第十回卒業記念として寄贈された柱時計があります。これを用務員さんが修理してくれ、再び時が動き始めました。玄関では、チクタクチクタクと静かに振り子が振れる空間に、著名な画家の高畑郁子氏や星野眞吾氏の絵画が掲げられています。その絵を眺めていると、時を超えて高畑、星野ご夫婦の声が聞こえてくるようです。また校長室にいると、定時になると、ボンボンと、この柱時計が時を知らせてくれています。子どもたちは、あと2か月で、卒業や進級です。この柱時計の音色に、残された時の大切さを改めて感じます。

 

 わんぱくタイムになりました。あすなろ学級を覗いてみました。今日は、子どもたちが読み聞かせを披露してくれる「おはなしのへや」だそうです。内容は、お弁当の話とおおかみの話でした。自分の体ぐらい大きな手作りの絵本を抱えた子どもたちは、満員になった観客の子どもたちに、堂々と語っています。その一言一言のたくましさに成長を感じます。

 思えば4月当初、子どもたちは、大変な恥ずかしがり屋で、ものかげに隠れてしまったり、小さな声で聞こえなかったりしていたことを思い出しました。彼らの成長は、いつ、どこで、どんなきっかけがあったかは分かりませんが、気がつけば、子どもたちは、あのころからずいぶん遠くに来ることができたなあと実感しています。

 「継続は力なり」と言います。あすなろの子たちは、本校の子どもたちとはもちろん、南部中、栄小、聾学校、高倉幼稚園と、多くの人たちとの交流を繰り返し、自信をつけています。柱時計の振り子が時を刻むように、たゆまぬ一歩一歩がそこにはあるのです。 

ながなわの詩


 
いきたいけど こわくて いけない

タイミングは わかっているけど

こわくていけない

まわる なわは、へびのよう

ゆうきを 出して 目を あけて

走ってみたら とべていた

 

 これは3年生の子が書いた詩です。

 今来週に迫った長縄大会に向けて、わんぱくタイムや昼放課において、練習が佳境を迎えています。音楽に合わせて、その跳ぶ姿は、以前に比べずいぶんスムーズになりました。3年生の子どもたちは、学年全体でうまく跳びたいと願い、その秘訣を「走りぬける」「なわの真ん中を通る」「リズムよくなわに入る」と掲げました。

 しかし、そうはいうものの、苦手な子にとっては、やはり至難の業です。「いきたいけど、こわくていけない」「まわるなわは へびのよう」というように、子どもの行く手には、津波のような縄が立ちはだかります。そして、子どもはというと、ヘビににらまれたカエルのように固まってしまっています。

 そんなとき、きまって現れるのが救世主です。子どもたちの姿を見ていると、あるクラスは、友達が跳ぶタイミングを教えようと声をかけ、またあるクラスでは、跳ぶ瞬間に背中をポンとたたいて送り出しています。カエルになってしまった当事者も、どうしよう、どうしようと迷っているうちに、友達や先生の後押しで「走ってみたら とべていた」と、あっ気ない幕切れを迎えています。

 過ぎ去ってしまえば、案外簡単。しかし、大人たちは、そのあっ気ない記憶に、跳ぶまでの緊張や恐怖を忘れ「あんなの簡単だよ」「すぐできる」と言いがちです。試練の近くには、いつだって神様がいる。私たちが忘れてはいけない教訓です。

大きくなったなあ


 令和2年がスタートしました。2棟の前に植えられた菜の花も、ところどころ花が開き始め、寒々とした空気が緩んできています。春は近づいてきているようです。

 さて、1月7日、冬休み明け集会が開かれました。

私は全校児童に話をした後、フロアの後ろに座っている高学年のところに行ってみました。さすが5,6年生、係の先生の話に真剣に耳を傾けています。そして最後に校歌を歌う場面になりました。号令のもと、立ち上がった彼らの後姿を見て、驚きました。12月末からまだ半月ほどしか経っていないのに、子どもたちがずいぶん大きく見えたのです。成長期は、子どもによっては、半年に5、6㎝も伸び、急激に成長する子もいます。しかし、新しい年を迎え、やがて中学生として、あるいは最高学年として歩まなければならない自覚が、彼らを大きく見せたのかもしれません。

 人の成長には、大きく飛躍する時ときっかけというものがあるものです。それは、準備されて訪れるものとは限りません。ある時偶然であったり突然であったりするものです。

卒業や新学年まであと3か月を切りました。さっそく体育館では、PR委員会のPR大会が開かれていました。自分の趣味や特技を披露するものですが、大衆の面前でそれを行うとなると、なかなか勇気がいるものです。何かを挑戦したり、継続したりする中で、この子の伸びるときを待ちたいと思っています。

 また校長室では、2年生九九検定が続いています。家庭や教室ではできるのに、ここに来ると緊張して覚えたものが飛んでしまう子もいます。できる、できないではなく、緊張感を乗り越えた向こう側に成長があると信じ、子どもたちと日々向き合っているところです。 

パプリカ合唱隊


  保護者の皆さんから、「挨拶が進んでできない」というアンケート結果をいただきました。そうした声を受けてか、3年生、5年生では、総合の授業や学級会で、挨拶について話し合い時間をもってくれました。教室ではやる気満々の子どもたちです。さあ、学校の外では……

 その週の寒い朝のことです。太田スポーツから上ってくる坂道より、何やら声が聞こえてきます。耳を澄まして聞いてみると、どこかで聞き覚えのある歌です。それも一人の声ではなく、何人かの歌声です。その朝は、冷え込みが厳しく、立っているだけで寒さがぞくぞくと身に染みてきます。私は凍えながら、彼らがこちらに来るのを待つことにしました。坂道を上ってくる彼らは、明るく笑顔でこちらに近づいてきます。寒さなど微塵も感じていないようです。

坂道を上りきると、その歌声はさらに大きく聞こえました。さあ、いよいよ曲のサビの部分に入ろうとしたとき、私の姿を認めた子どもたちは、急に歌うのをやめ、大きな声で叫びました。

「おはようございます」

「ああ、おはようございます」と私は挨拶を返し、「何という曲?」と聞くと、子どもたちは一斉に笑顔で「パプリカ」と答えてくれました。

その後、子どもたちは、角を曲がり、西門に向かいました。そして、しばらくすると、再びパプリカが始まりました。私は、後ろ姿を眺めながら、彼らを「パプリカ合唱隊」と勝手に名づけました。寒い朝でしたが、合唱隊の元気な歌声と挨拶に、何とも気持ちのよい朝となりました。 

  冬場の登校は、冷たく気が重いもの、おそらくパプリカ合唱隊の中にも、そういう子はいたに違いありません。しかし、歌声と仲間の力で、元気な朝を迎えることができたのです。見ると合唱隊は、今はもう学校に到着するところでした。 

マラソンの宝物


 今年度本校に赴任した川島先生は、マラソンが趣味だそうです。日本各地のマラソン大会に参加している、42.195㎞を走るまさしくレジェンドです。「あんなにつらい競技、なぜ走り続けるの?」と私が聞くと、「走るのが楽しいから」と答えがあっさりと返ってきました。どんなことに対してもやはり「好きである」ことが向上の第一歩であると、改めてわかります。

  さて、今年の校内持久走大会は、風もない小春日和の11日に実施できました。昨年は、インフルエンザ流行により学級閉鎖もありで、年越しをして実施した学年もあったことを思えば、今年は最高のコンディションであったと言えます。

 とはいえ、川島先生のように「楽しく走る」境地には、子どもたちはまだほど遠いらしく、顔をしかめ苦痛にあえぐ顔や、涙を浮かべて悲嘆にくれる顔と、私の前を走りゆく顔は、どう見ても楽しそうではありません。楽しい境地は、もう少し時間がかかりそうです。

 今年のマラソンも、順位や記録といった結果だけでなく、悲喜こもごものドラマがありました。

   休日も学校に来て練習を続けた子、友達についていこうと懸命に友の背中を追った子、ライバルに敗れ、悔し涙を流した子、疲れて倒れたが先生の言葉に復活し再び走り始めた子、去年は伴奏者がいたが今年は自力で走った子、そして、友達のために声を枯らして応援した子など、そこには、順位、記録という器からはこぼれ落ちても、さんさんと輝いているものがあります。その放っておけばうずもれてしまう宝物を拾って、本人に「がんばったね」と言葉で返してあげるのが大人の仕事です。

 保護者の皆さん、ご来校ありがとうございました。わたしたち教職員が、拾いきれなかった我が子の輝きを、ぜひご家庭で届けてあげてください。

舞い散るイチョウの葉を見つめて

 

   陽光に照らされながら、黄金色に染まったイチョウの葉が、はらはらと舞っています。その中を子どもたちは走りぬけていきます。

かけ足訓練が始まりました。イチョウの樹は、眼下にこうした子どもたちの頑張る姿を眺めて毎年葉を落としているのでしょうか。樹の根元では、今日も用務員さんが朝から竹ぼうきや熊手で落ち葉をかき集め、軽トラックにのせています。ご苦労様です。

   落ち葉舞う光景を見ていたら、先日行われた特別支援学級の「クリスマスの集い」を思い出しました。総合体育館で行われたこの会のクライマックスは、体育館の天井から舞い落ちる紙吹雪です。その紙吹雪の風景が、落ち葉舞い散る本校のそれと重なったのです。会場が暗くなり、雪のような紙吹雪がひらひらと落ちてきます。市内の特別支援学級の子どもたちは、両手を広げながら歓声をあげています。そして、会場が明るくなると、フロア一帯は 紙吹雪の雪景色が広がっています。

   アナウンスとともに雪合戦が始まりました。よく見ると、一片一片の紙きれは、形がさまざまです。四角もあれば三角もあり、いびつな形もあります。その形の一片一片に、子どもたちが雑紙を細かく切り準備した姿が浮かび上がります。これだけ膨大な量ですので、たくさんの時間を要したに違いありません。放課も使いながら、子どもと先生が車座になって会話を楽しみながら切り続ける光景が見えるようです。紙吹雪が美しく見えるのは、楽しかった先生とのふれあいの思い出もあるからではないでしょうか。

 会場にはたくさんサンタクロースが集まりました。が、先日は、本校にもたくさんの方が訪れ、すてきなプレゼントをいただきました。「むかしあそびの会」です。校区のご老人が、めんこ、コマ、お手玉、けん玉、あやとりなどと、さまざまな遊びを教えてくれました。会場は、「クリスマスの集い」と同じように、1年生の歓声がいつまでも響いていました。

ウインナーで考える


 「お店に売られているウインナーは、40種類あります」そんな先生の声に、教室がざわつきました。シャウエッセン、アルトバイエルン、あらびきポーク、パリッと朝食ウインナー、豊潤、香薫…と、子どもたちもそうでしょうが、私も、ウインナーにこれほど多くの仲間がいることをはじめて知りました。

先日、子どもたちは、家庭科の調理実習の食材選びに、マックスバリューの見学に行きました。野菜炒めを作るらしいのですが、そこで使うウインナーとしてどれがよいのか、改めて先生から本時の課題が突きつけられたのです。スーパーで何気なく手にとったウインナーに、なぜそれを選んだの?と言われても、私は困ります。しかし、そこは子どもたち。熟考し、根拠を導きます。私たちが日頃素通りしてしまうスーパーの陳列棚の一角が、こんなふうにおもしろい授業へと広がっていったのです。

 さて、本時のメインディッシュともいうべき、3種類のウインナーが丁重にお盆にのって登場しました。それを見て子どもたちは「食べたい」「試食」とつぶやきますが、先生はにやりと微笑んで「ダメです」と一喝。40種類から選ばれた選手は、A…お弁当のタコになって登場する、赤くてきれいで格段に安い品。C…私は食べたことのない一本35円もする、いかにも高級品。B…AとCの中間。私の家庭でも食べている庶民の品か。

   子どもたちは、話し合います。値段、大きさ、数量、使い道、産地、さまざまな観点から考えます。そして、ほとんどの子がBを選んだのです。選んだ根拠として興味深かったのは、「家でよく使う」「見慣れている」「親が美味しいと言った」等、家庭の香りがしたことです。やはり家庭こそが安心の拠り所なのでしょう。

   ただ、ここで引き下がるわけにはいきません。色合いが大切と意見が出たところで、先生は「安くて、赤くてきれいで。なぜAがダメなの」と追い込みます。子どもたちも負けてはいません。「安いからいいというものではない」と毅然と答えます。そして、「いいというもの」とは、何だろうか。見た目だけではなく、食品添加物に目が向いていくのでした。

 正解を出すことだけが学習ではありません。このように考えることが、新しい時代に見合った思考力を磨くということではないでしょうか。今度、我が子とスーパーに行ったとき、ぜひウインナーを選ばさせてあげてください。

福岡っ子発表会に寄せて


  晩秋の冷え込みとともに、学校の周りの街路樹も少しずつ色づいてきました。イチョウ、イロハモミジ、ケヤキ、ソメイヨシノなど、それぞれの樹がそれぞれの色に染まろうとしています。それにしても、昨今の異常気象の中にあっても、多少の早い遅いはあるにしろ、こうして約束を果たすように学校を染めてくれる風景にふれると、樹木たちに「今年もありがとう」と伝えたくなります。

 一方、本校も福岡っ子発表会が近づいてきました。届いたプログラムを見ますと、今年も美しいメロディや力強い音の響きの演奏を皮切りに、楽しみな企画が並んでいます。勇気や信頼をテーマに、アイディアあふれる演出と力強い演技が際立つ冒険の物語もあれば、戦争や校区の歴史を取り上げ、人の営みや思いそしていのちを見つめるもの、さらには、野菜や虹の子など他の物になりきって、元気で明るい自分たちを表現するものと、楽しみは尽きません。

 紅葉の見ごろは十一月の終わりでしょうか、一年中のわずかな期間です。しかし、樹々たちは、たったひとときその瞬間に向かって、精一杯生きているように見えてきます。福岡っ子たちも、発表会というほんのわずかな時間のために、先生たちの叱咤激励を受けながら積み上げた練習を糧に、自らを新たな自分に染め上げて、本番に臨むことでしょう。

 詩人のサトウハチロウ氏の詩「自分を染めてあげてください」の詩の一節に、「ひとにやさしく、自分にはきびしく、これをつづけるとすばらしい色になる。ひとをいたわり、自分をきたえる これが重なると輝きの色になる」とあります。あと一週間の練習で、子どもたちがどのように色づいてくれるか楽しみでなりません。 

ワンチーム

  
  修学旅行に行ってきました。6年生のテーマは、「I」(あい)見つけ。学び合い、助け合いを子ども同士が見つけようというものでした。私も、6年生の「I」見つけをしようと参加しました。

 私が彼らの中に見つけた「I」は、時間を守る、しゃべらず動くという 集団行動の素早さです。

 まず旅の始まりの豊橋駅。この時期は、修学旅行シーズン、駅は多くの児童や生徒が終結する場です。この日もお隣の栄小学校そして、南高校の生徒たちが集まっていました。いち早く集合完了した福岡っ子は、速やかにホームに移動、だまって行動する姿に、思わず感心した駅員さんから「高校生よりすごい」と、お褒めの言葉をいただきました。

 京都駅でも、予想通り、修学旅行生に加え、一般の観光客、外国人旅行客とごったがえしていました。ホームに降りると、添乗員さんを追いかけて階段を下ります。先頭が見えにくいなか、福岡っ子は、群衆をかき分け一団となってバスに乗り込むことができました。

 観光地につけば、写真撮影のベストスポットは、当然混雑しています。法隆寺の境内でも、東大寺の鏡池前でも、そうでしたが、時間と空間のすき間をぬって、素早く整列し撮影し、速やかに、次の団体に明け渡す動きがありました。クラスが「移動して」「並んで」「ポーズして」と一連の動きの速さは、写真屋さんを驚かすほどでした。

 学校に戻れば、写真屋さんの撮影した集合写真が展示されます。青空をバックにさわやかに並ぶ笑顔の裏には、短時間で混雑を克服したという自信があふれているのです。

 さて話は変わりますが、先日ラグビーのワールドカップは最高の盛り上がりを見せて閉幕しました。日本は強豪に次々と勝利し初のベスト8を果たすなど、「ワンチーム」としての結束ぶりが評価されました。ですが、福岡小6年生の動きもなかなかです。日本代表に負けず劣らずの立派なワンチームだったと思っています。 

メタセコイヤの思い出


 小学校時代の部活動の思い出と言えば、サッカーの中央大会に出場したことです。昔々48年前、思えばもう半世紀近く前の出来事。田舎の小さな学校だったので、当時としては快挙でした。

 忘れられない理由は、私のミスで負けたからです。

 当時、私はキーパーをやっていて、チームは結果的に市内優勝したチームと初戦で対戦、接戦だったのです。しかし、今思えば、私のポジションが悪く、前に出過ぎていたのでしょう。相手のヘディングしたボールは、私の頭上を越え、ゴールの中に落ちていきました。そして、これが決勝点となって、あえなく1回戦敗退となりました。ここで、私とサッカーのつきあいは終わりました。ただ当時は忘れてしまいたかったこの敗北も、ずいぶん時が経ち「がんばったんだよ」と思い出が慰めてくれ、懐かしいものになっています。

 このときの他の思い出といえば、実に断片的です。近くに電車が走っていたこと、グランドがやたらと広かったこと、そして大きな樹が見えたこと。そう、会場は、福岡小学校だったようです。私が、本校に赴任したとき、その風景を見て、ああ、あの樹はメタセコイヤだったんだと、思い出の中の樹にたどり着くことができました。

 今も部活動を見るのが好きで、授業後、グランドにサッカー部の練習を見に行くことがあります。声を出し、元気に走り回る選手たちがまぶしく見えます。遠い昔の自分を重ねながら、今の選手は、本当に上手だなと感心しきりです。

 令和の時代になり、長い部活動の歴史も閉じようとしています。しかし、懸命にがんばった思いや思い出は閉じることなく、永遠に続いていきます。球技部のみなさん、頑張ってください。

校歌に包まれて


 最強といわれた台風19号が過ぎ去り、予定を変更するなどして、各町で祭礼が行われました。

 小池神社では、恒例の和太鼓演奏がありました。5時半になると、ステージ前には、地域の人たちがシートに座って、子どもたちの出番を待っています。子どもたちは、緊張感に包まれながら、3曲を披露。「よく合わせられるなあ」と見物している地域住民の感嘆の声に、「練習頑張ってきましたから」と答えておきました。

 その後、橋良神社で、本校の清川、瀬野尾先生が手筒花火をあげると聞いていたので、自転車を走らせました。途中、福岡っ子が「校長先生じゃん」「こんばんは」「どこいくの」と声をかけてくれました。

 西の空が夕焼けに染まる中、橋良神社につきました。爆竹があちこちでなり、出店もありにぎやかです。くじをもった人たちの長い行列ができていました。

 いよいよ奉納花火です。清川、瀬野尾両先生の登場です。スーツでもなく、運動着でもなく、祭着でさっそうと現れたふたり。一礼の後、手筒に点火された手筒は炎をふき上げます。両先生は、炎が安定すると、筒を起こし、体全体で支えます。宙に吹きあがった炎が、火の粉になって、桜の花ふぶきのように落ちてきます。その美しさといったら言葉にしようもありません。

 清川先生に聞いたのですが、手筒の製作はすべて自分に任されるそうです。竹を取り、筒をくりぬき、縄を頑丈にしめる、そして火薬をつめる、数週間前からたいへんな準備があるわけです。桜が厳しい冬を乗り越えて花をつけるように、美しい花火にも、厳しい時間が流れているのです。

 吹き上がる炎のBGMに校歌が流れました。するとどうでしょう。そのメロディにあわせて校歌を口ずさむ子どもや大人。校区の人たちのやさしい歌声に包まれ、ふたりの晴れやかな炎の舞が繰り広げられたのです。

優しい朝の風景を見つめて

    ある朝のことです。通学路の歩道で転んだ中学年の女の子がいました。アスファルトでひざが擦れて、かなり痛そうです。立とうとするわけですが、手をついて四つんばいになったまま、なかなか動けません。目から涙はとめどもなく出てきます。その涙に圧倒されてか、班の子は、その場に立ち尽くしたままです。いたいたしさに、子どもたちの時間は止まったままでした。

  そのときです。1年生の男の子が、その上級の女の子に手をさしのべるではありませんか。かざされた、その小さな優しい手のひらをじっと見つめた彼女は、やがて顔を上げ、自力で立ちあがったのでした。そして涙を拭き、ランドセルを背負い直すと、今度は彼女の方からその男の子に手をさしのべました。手をつなぐと、みなが安心したように歩き出しました。彼らの時間も動き出したのでした。

    福岡ウォークの舞台である通学路では、こんなふうに優しさのあふれる福岡っ子の紡ぎ出す感動的な場面があります。先日は、突然鼻血を出した男の子を「大丈夫、大丈夫」と安心させながら登校する子たちがいましたし、泣き出した1年生の子をおんぶして登校する上級生もいました。

  しかし、その一方残念なこともあります。大きな声で挨拶してくれた子たちの声がめっきり小さくなったことです。地域の方から挨拶ができなくなったねえというのも声も届いています。優しさが声にならない、これは悲しい風景です。

  大きな声を出すことは、人とつながることはもちろん、自分の身を守ったり、だれかのいのちを救ったりと、大切な行為です。昨日の福岡ウォークでは、元気な挨拶が校区にとどろいていました。この声が毎日続くといいなと思いながら、手をつないだ2年生と4年生の子たちの背中を見つめていました。
 

メッセージ

 頑張って今も咲いている1年生のアサガオの花。その鉢植えの前にある畑に、そのアサガオをまねるかのように、謎のうす紫の花が咲きました。何だろうと、1年生の子に尋ねてみますと、「サツマイモ」と返ってきました。

 サツマイモの花、ううん、見たことない。

 生活科の先生に調べてもらうと、サツマイモの花は、沖縄以外では咲かないそうです。……ただ干ばつがひどかったり、猛暑であったりすると、まれに花が咲くことがあると教えてくれました。ああ、そういえば今年の夏の暑さもかなりのものでした。健気に咲くその姿は、夏の酷暑に耐えぬいたという力強いメッセージなのかもしれません。

 さて、福岡ウォークが近づいてきました。

 元気いっぱいの2年生は、練習も兼ねて、校区探検に出発しました。

 潮音寺では、塩満保育園の園長先生にその歴史を聞きました。

 今から約75年前、豊橋空襲でほとんどが消失された中で、唯一火災を免れたのが、山門。その中には、恐ろしい形相で立ち尽くす一対の仁王像があります。その仁王像ににらまれてか、子どもたちもいつになくおとなしく座っていました。像の前に吊るしてあるわらじは、裸足の仁王様を気遣って、地域の方が編んで吊るしてくれたと話がありました。

 人々の思いを受け止め、阿吽の呼吸で、地域を守り続けてきた仁王像。彼らも、戦争当時戦火で燃える市街を目の当たりにして、その表情どおり怒りに満ちていたことでしょう。そう考えると、焼け残った仁王像は、私たちに戦争の悲惨さを伝えるひとつのメッセージのようにも思えてきます。

 いよいよ3日は、福岡ウォーク。福岡校区の街並みに残る風景には、さまざまなメッセージが隠れています。2年生、4年生の皆さん、歩いて、ふれて、考えて、福岡校区の声を聞いてみて下さい。



 

 

 

白いテープ


 わんぱくタイムになりました。ふれあいルームは、トーチ棒を手にした子どもたちがなだれこんできました。間近に迫った野外活動のファイヤーのトーチトワリングの練習です。それぞれが、思い思いにトーチ棒を指に挟んで回し始めています。そこに瀬野尾先生が現れると、一気に頑張ろうという緊張感が高まります。さすが瀬野尾先生、彼の卓越した指導力に感銘を覚えます。ただ昨年度から雨男として一世を風靡した人ですので、当日の天候については一抹の不安がよぎります。映画で話題になった「天気の子」を呼んできたいものです。

 練習が始まりました。すると程なく練習の輪から抜けて、部屋の片隅で手に巻いてあったテープを巻き直している子がいます。ああ家庭や学校で練習を繰り返し、おそらく指の関節や指と指の間が棒で擦れて負傷しているのでしょう。痛いだろうなという心配をよそに、本人は痛がる様子を微塵も見せず急いで練習の輪に戻りました。そんなことを思って子どもたち全体を見渡すと、多くの子の真黒に日焼けした手元に、白いテープがまぶしく見えます。本物の炎を扱う恐怖や緊張を前に、本気になって取り組む子どもたち、その勲章のように白いテープは輝いています。

 時を同じくして、家庭科室では、カレーの調理実習が進んでいました。額に汗して、ジャガイモ皮むき、具材の煮込みに真剣に取り組む姿を見ていると、ここでも5年生の野外教育活動に寄せる思いの強さがひしひしと伝わってきます。カレー作りも万全なようです。

「あなたは、来年職がなくなるかもしれないから、料理でも勉強したら…」家庭で言われました。食欲の秋、料理などあまりしたことがない私の手も、白いテープに覆われているかもしれません。

スタートライン

 
 職員すら知らされなかった、8月17日清川康輔先生 結婚式の極秘情報は、どこから、どう伝わったのでしょうか。

 当日式場には、3年生、6年生、卒業生等と、彼が担任として関わった子どもたちが登場し、式に花を添えてくれました。子どもたちの笑顔や祝福の言葉に囲まれて、なんと二人は幸せそうな表情なのでしょう。彼の言葉を借りれば、こうして新しい人生のスタートラインに立ったことで、いかに周りの人たちに支えられて生きてこられたかがわかったそうです。

 結婚に限らず、人生においても、人は何度もスタートラインに立ちます。そしてそこで立ち止まることで、今までの人生を顧みたり、これからを展望してみたりと、視野が開けて新たな一歩が踏み出せるのです。

 さて、そのスタートラインと言えば、8月末、長年の願いが叶い、小池神社横に信号が設置されスタートしました。これまでここは、朝夕の車の通行量が多く、しかも若干カーブする道で見通しがよくなく、さらに加速して走る車も多く、校区で一番の危険箇所で、子どもたちの通学に危険が伴っていました。しかし、こうして、安心して横断歩道を渡る子どもたちの姿を見ていると、校区の自治会長さん、議員さんをはじめ、校区の皆様のご尽力、ご協力に対して感謝の言葉も尽きません。さっそうと立っている信号は、さながら清川先生と同じで、その陰に、多くの人たちの存在を感じます。信号機のついた横断歩道は短いですが、その数メートルに10年以上の人々の苦労が詰まっているのです。

 夏休みが終わりました。職員の吉報、校区の朗報に包まれて、また子どもたちの学校生活がはじまります。子どもたちは、スタートラインに立ち、夏休みをふりかえりつつ、新たな一歩を踏み出そうとしています。  
  









はじまりの美


  アルプスの少女ハイジという有名なアニメがあります。

 ハイジがある時おじいさんに「夕焼けはなぜこんなに美しいの?」と尋ねます。おじいさんは、「夕焼けは、お日様が山にお別れをする言葉だからさ。この世で一番美しいのは、お別れの時なんだよ」と有終の美の話をするのです。

 この話を思い出したのは、水泳部の子どもたちの練習を見ていた時です。7月のはじめ、「今年度水泳部を先行廃止し、来年度、陸上、球技、駅伝のすべての運動部を廃止する」という市教委の方針に、子どもたちの姿が、沈みゆく太陽のように思えたのかもしれません。

 実際に、目の前の子どもたちはというと、水をかき、水をけり、懸命に泳いでいます。その動きに触発され、まわりの子たちからは、自然と「がんばれ」「いいぞ」と水しぶきといっしょに声があがります。そして、ついにゴール。水面から現れた真黒な顔、そして疲れ切った表情の中にある瞳の輝き。なんとも言えぬ強さを放っていました。ああ、「有終の美」なのかなあと思えてしまいました。

 8月3日の最後の大会は、本当によく頑張りました。


 さて、その一方、グランドや体育館の球技部も動き出しています。「おはようございます」と、今日も元気な声をかけてくれました。上手な子も、そうでない子もいます。技術はどうであれ、やる気に満ちた姿は、美しく、未来を感じさせます。部活動は廃止の道をたどりますが、彼らにとってのスポーツ人生は始まったばかりです。夕日ではありません、朝日のような「はじまりの美」なのです。

対岸の声

 5年3組のおたより「コスモス」に「珠美の人生日記」のコーナーがあります。岩瀬先生が、日々子どもたちとのかかわりの中で、さまざまな思いが綴られています。私もひとりの読者として、毎週楽しみにしています。

 その中に、A子さんのことが書かれていました。彼女は、泳ぎが得意ではないらしく「水泳特訓をしています。」とありました。そして、人生日記は続きます。「人に頼らずひたすら頑張って泳ぐ彼女を見ていたら、先生も何か挑戦できるものを見つけたいと思いました。」と…。岩瀬先生は、A子さんの泳ぐ姿に、勇気や元気をもらったようでした。

 岩瀬先生のこの気持ちは、私にもわかります。それは、朝の登校風景でした。私が本校に赴任したころは、子どもたちと出会っても、恥ずかしさが先だって、下を向いて歩いていってしまう子が多くいました。しかし、先日のことです。国道259号線の歩道に立っていると、「おはようございます」という元気な声が聞こえてくるではありませんか。声の方に目を向けてみますと、行き交うたくさんの車の間から、子どもたちのたくさんの笑顔がのぞいていました。この通学班の子たちは、反対側の歩道にいる私を見つけて、声をかけてくれたのでした。車の騒音を越えて届けてくれた元気いっぱいの贈り物に、私も岩瀬先生と同じように、今日頑張ろうという元気や勇気をいただいたのでした。

 いよいよ夏休みを迎えます。全校朝会でも話したように、子どもたちは、本当によく頑張ったと思います。が、忘れてはならないのは、頑張った自分のすぐ近くには、A子さんやあの通学班の子たちのような勇気や元気を与えてくれる存在がいたのではないでしょうか。

 交通事故、不審者、熱中症、異常気象と、子どもの取り巻く環境は必ずしも万全とは言えません。友達や先生とのつながりを忘れず、安全に元気いっぱいの夏休みを過ごしてほしいと願っています。     

逆境をくぐる


 校長室で仕事をしていると、胡蝶蘭の花がぽとりと床に落ちました。2年前に本校に赴任したお祝いにいただいた花で、あれから株分けをしただけなのに、今年もそれぞれの鉢に美しい花を咲かせてくれました。ゴールデンウィークから開花していましたので、2か月も咲いてくれていたことになります。

 その胡蝶蘭のことですが、知人からこんなことを聞きました。蘭は気持ちのよいときに花は咲かない。これ以上追い込むと枯れるかなというくらいのとき、立派な花を咲かせる。思えば、来客や出張、事務仕事に追われ、うっかり水や肥料を与えることを忘れてばかり。この放任という逆境が、この花たちを咲かせるエネルギーを生んだのだと思いました。

 花と言えば、1年生の教室前では、アサガオが満開です。疲れた表情で登校した子どもたちも、アサガオを目にすると、小走りに駆けよっていく姿を見かけます。「願いがかなった」という子どもの声にあるように、大輪の花には、水や肥料だけでなく、ことばや思いという愛情がいっぱい注がれています。ただ、アサガオが開花する条件に目を向ければ、夜という真っ暗な闇が不可欠だそうです。アサガオの凛とした美しさは、ひっそりと孤独の夜をくぐった自信の表れかもしれません。

 さて、陸上大会。子どもたちは、大健闘でした。私の心をとらえたのは、結果を出せなかった子どもの涙です。ゴール直前で転倒し、結果を出せなかった。リレーでバトンを受けたのに追い抜かれ、順位を守れなかった。陸上大会は、歓喜や感動とともに、たくさんの「もう一息」があり、挫折や失望も連れてきます。あなたの悔し涙は、胡蝶蘭やアサガオが花をつけるためにそうであるように、次の飛躍のためのつらい時間ではなかったでしょうか。

 スタンドの控え席に戻ったあなたは、仲間からの「よくがんばった」という労いのシャワーを浴びました。大丈夫、逆境をくぐった人は強くなります。

とっておきの場所

 

 「あの遊具は、うちのおやじが作ったんだ」と校区の方が教えてくれました。あの遊具とは、本校の校庭にある、鉄の棒がずらりと並んだ上り棒です。当時、体力づくりの一環で、学校から要請があり、請け負って作られたと聞きました。「学校に自分の作品が、こうして未だに残っているなんて、すごいですね」と私が言うと、「そうそう、おやじにとっては、とっておきの場所」と答えてくださいました。

「とっておきの場所」と言えば、先日、かわいいお客さんが多数、校長室に来室されました。校長室にあふれんばかりのお客さんたちは、はじめて入室したその部屋を珍しそうにぐるりと見渡します。すると、何かひらめいたように、いきなりカーペットに着座して、鉛筆を走らせ始めました。1年生の学校探検。けっこう長時間、無心にスケッチを描き続けました。そして用事がすみ退室するときには、「ありがとうございました。失礼しました。」の声。行儀のよい来訪者のスケッチは、1年生昇降口に展示されました。果たしてお気に入りの場所になったでしょうか。

 一方、6年生の掲示板に行くと、想い出の場所の水彩画がありました。1年生と違い、彼らの絵には、5年間余りの学校生活という経験が上積みされ、思い入れがあります。「友と楽しく遊んだ」「部活動でがんばった」「1年生のお世話した」と いつも何気なく眺めているところも、想い出のフィルターを通すと、そこに頑張った自分がいることがわかります。6年生のみなさん、想い出を紡ぐのは、まだまだこれからです。

 さて、学校開放日、ご来校ありがとうございました。悪天候でしたが、親子下校いかがでしたか。我が子と傘を寄せ合いながら曲がったあの角も、今朝は女子中学生の待ち合わせ場所でした。通学路にもとっておきの場所があるのでしょう。家路へと急ぐ道すがら、想い出をたぐり寄せると、大切な場所が見つかるかもしれません。

各駅停車

 

 「ぶらり途中下車の旅」という番組ではありませんが、校長室から各教室へ、途中下車するように歩くことが日課になっています。

ある教室は、「算数の友」を各自取り組んでいました。課題が黒板に記され、できあがるとそれを先生に見せにいきます。「できたあ」の声とともに、先を争うように、先生のところに駆けこむ子たちがいます。できた喜びをいち早く先生に伝えたい、それが子ども心でしょう。が、私が注目した子は違いました。静かに席を立つと、床に落ちている鉛筆をおもむろに拾い持ち主に届け、解き方に困っている子には、小声でアドバイスするなど、なんともゆったりした歩調です。結局、彼は、最後尾に平然と並びました。「ゆっくり」も悪くないなあと思い、教室を出ました。

また、ある教室では、話し合いの授業が行われていました。活発な意見交流です。発言内容に耳を澄ますと、「○○君につけたしで……」「○○さんと少し違って……」と、仲間に敬意を表すように、発言の枕詞に友達の名前をつけていました。黒板にはたくさんの子の名前のプレートが並びました。先生が考えた授業の道すじに、おのおのの子が考えを上書きしていく授業。「どっちがいいんだ?」の先生の質問に、結論を急ぐのではなく、ああでもない、こうでもないと各駅停車しながら、進んでいました。そして、最後は「どちらも悪くない。大事なことは、歩みたい人生を自分で判断することです」と大人顔負けの人生観ともいうべき意見に、授業の終末がきゅっと締まりました。

 図書館に行くと、1年生とあすなろ学級の子が本を選んで読んでいました。1年生は、お気に入りの本を私に見せてくれました。あすなろのひとりは、テーブルで電車図鑑を熱心にみています。「電車がすきなの?」と聞くと「うん、好き」と答え、東海道線のページをみせてくれました。そこには、各駅停車の電車が並んでいました。各駅停車もなかなかいいものです。   

トンボの羽化


   3年生の教室で、「飼っていたヤゴがトンボになったよ」そんな声が校長室に届きました。さっそく教室に行って水槽の中をのぞいてみると、まだ何匹かのヤゴが残っています。ヤゴは、よく見ると風貌はグロテスク、メダカやオタマジャクシを素早く捕食するハンターだそうです。

羽化は、授業中でした。止まり木でじっとしていたヤゴは、授業に集中する子どもたちの空気に決意したのか、その場で自らの殻をやぶり、一気にトンボになったと聞きました。種別は、赤とんぼでおなじみのアキアカネ。

 ヤゴは、トンボになるまで、10回前後脱皮を繰り返すそうです。初夏の風にのって、軽やかに飛んでいるかのように見えるトンボですが、それは、成虫になるまで脱皮や羽化、幾多の試練を乗り越えた雄姿であることを忘れてはなりません。

 さて、運動会が終わりました。厳しい暑さの中、全力を尽くす子どもたちの姿に感銘を覚えました。子どもたちは、ずいぶんたくましく成長しました。

なかでも、高学年のスタンツの時でした。始まりの音楽とともに演技が始まるわけですが、CDを入れても音が出てきません。子どもたちは、身をかがめたまま、じっとその時を待ちます。直射日光が照りつけ、汗が滴り落ちたでしょう。それでも、彼らは音楽がかかるのをそのままの姿勢で待ち続けたのです。ようやく音が聞こえてきました。逆境に耐え、満を持してそのときを待つ。彼らの姿に、まるでトンボの羽化を見ているようでした

 人間は、ヤゴのように脱皮や羽化はありません。子どもたちは、今日の演技に至るまで、何度も心の脱皮を繰り返し、運動会本番の晴れ舞台で、見事羽化したのではないでしょうか。令和の風に吹かれてゆうゆうと飛んでいるトンボ。それは、本校を支える子どもたちの未来のように思えてきました。

小さな失敗のすすめ


   ひと昔前の話です。私は、仕事で失敗をしてしまいました。他の人からは「大きなミスではないよ」と慰められ、今から思えばたいしたミスではなかったと納得もできるわけですが、当時の私にしてみれば、同僚にかなり迷惑をかけたことですし、その重大さに動揺し、落ち込みも激しかったと思います。

 外に出て頭を冷やしました。そして、自分の席に戻ってみると、一枚の一筆箋が机上に置いてありました。

「大きな失敗をしないために、小さな失敗をしよう」。手書きの文字で書いてありました。先輩の文字でした。「小さな失敗をしよう」という前向きな言葉に、私のへこんだ心は、ずいぶん楽になった気がします。

「小さな失敗をしよう」これまで仕事を続けることができたのも、心のどこかで、この言葉が支えてくれたのかもしれません。

 さて、本校の子どもたちに目を向けますと、いよいよ運動会を間近に控え、その練習が真っ盛りです。教室や運動場のあちこちから、運動会の歌声や応援合戦のかけ声が聞こえてきます。今年のテーマは、「令和の風を巻き起こせ、赤白青の白熱バトル」。競技や演技のバトルの中で、当然「負けた」「できなかった」「恥ずかしかった」と、失敗や挫折もついて回るわけです。現に、運動会で涙したり自信をなくしたりする子を、これまで何度か見てきました。しかし、これらは、長い人生を思えば、小さな失敗です。小さな失敗は、挑戦する勇気と、大きな失敗を回避する見通しを学ぶ貴重な経験だと思うのです。

 今日も、外遊びで、「転んだ」「打った」「ぶつかった」と、何人かの子たちが保健室に足を運んでいます。すこし痛そうですが、けっして暗くない表情を見て安心します。痛みを通して、安全や危険も学ぶ。「将来、大きなけがをしないための、小さなけがなんだよ」。そんな思いで、子どもたちを見守ることにしています。  

鈴の鳴る道


  「おはようございます」 黄色いランドセルカバーの女の子と挨拶を交わしました。ランドセルは重そうですが、上級生のお姉さんの右手をしっかり握りしめて歩む姿は、入学当時に比べると、格段にたくましくなりました。

 朝の陽ざしが道路にさしこみ、子どもたちの影が通学班の後を追いかけるように続いています。なんとも気持ちのよい朝です。ただ今朝の心地よさは、挨拶や笑顔の明るさだけではありません。彼女のランドセルにくくり付けられている鈴が奏でる音が、彼女が歩くたび、チリンチリンと、BGMのように聞こえるのです。ああ、あの鈴の音に、我が子に対する、親御さんの安全や幸せの祈りがこめられているんだなあと思うと、なんともいえぬ気持ちになりました。

 坂を上っていく彼女の後ろ姿を見送っていました。ふと思い出したのは、星野富弘氏の「鈴の鳴る道」というお話です。若き日大けがを負い車いす生活を余儀なくされた作者にとって、道路の段差やでこぼこ道、カーブは、その振動によって苦痛を味わう、避けて通りたい道だったそうです。しかし、その振動によって、ぶらさがっている鈴が得も言われぬ音色を奏でるではありませんか。彼は、逆境を乗り越えると、必ずよいこともあると、鈴から学び、でこぼこもなるべく迂回せずに進もうと決意するのです。

 黄色いランドセルの後ろ姿は、ずいぶん遠くなりました。これから彼女の人生にも、困難や試練が待っていることでしょう。でも、あの足取りの力強さに、彼女は、心の鈴を鳴らしながら成長していくと思わずにはいられませんでした。

あすなろの願い

 

 話は半年前にさかのぼります。福岡っ子発表会で、あすなろ学級の皆さんが、「水戸黄門」を演じたことを覚えていますか。その劇中で、メモ帳をもった謎のじいさんが現れましたね。そのじいさんが、あすなろの黄門様一行にプレゼントします。あれはいったい何でしたか。

正解は、あすなろの木。

 あすなろの木は、ひのきと似通っています。「あすはヒノキのようになろう」から命名されたと言われる「あすなろ」は、ヒノキに劣るイメージがあります。しかし、実際には、強度、耐久性に優れ、ヒノキに負けない材質だそうです。「あすなろ」という言葉自体も、「劣っている」というよりも「向上心があり前向きなもの」としての響きが強く、あすなろ学級のように、いい意味で使われることが多いです。

 昨年度末、ついに本物のあすなろの苗木が届きました。あすなろ学級の子どもたちは、セレモニーを行い、グランド西の遊具の近くに植樹しました。苗木の背丈はまだ1年生より低いですが、いつかは人間の背丈を越え、本校の大樹と肩をならべることでしょう。

 新年度が始まりました。各学年の子どもたちはそれぞれが目標を掲げ、歩み始めました。「算数が苦手だからがんばる」「部活で選手になる」「1年生に優しくなる」「たくさん笑う」と一つ一つ読み進めると、あすなろの木のように、未来にはこうなりたいという思いがひしひしと伝わってきます。

 今、本校の校庭の樹木も、初夏にむかって、若芽が一斉にふきだしています。その風景の美しさは、子どもたちの抱いている明るい夢や未来を思わせてくれます。 

サクラの美しさ


 今年は、サクラが待っていてくれました。

最近は、温暖化の影響か開花が早く、例年、入学式のころは、散り始めているというのが常でした。今年も三月末には、花が開き始め、入学式まではもたないと危惧されたわけですが、月初めの寒波で、満開の日が後ずさりしていったのでした。おかげで、程よいサクラの咲き具合で、入学の日を迎えることができました。

 サクラの花は、咲き始めから散るまでその期間は短く、はかない象徴として、出会いや別れにたとえられます。また、花の色は、白や淡いピンク。品種や気候によって、多少違うようです。ただ注目すべきことは、わずかな期間にかかわらず、花の色が変わっていくということです。開花しても、そこにとどまることなく、変化し続ける、これが、サクラのひとつの魅力なのかもかもしれません。

 入学式前日、新6年生が準備にあたりました。黙々と活動する姿に胸を打たれました。思えば、昨年度の6年生を送る会から今日に至るまで、わずかな期間にもかかわらず、日に日に変わっていく6年生の子どもたちの姿に、サクラの美しさを見た気がします。

 人の成長は、時間ではありません。そこにかける思いが、人を変えていくのです。

 

さあ 始まる

   体育館では、6年生が卒業式の練習中でした。フロア中央にある演台で、証書を授与する一連の所作は、ややぎこちなく不自然さがぬぐいされません。でも、卒業の歌になると、その美しいハーモニーに、会場が一変、卒業の空気に包まれました。卒業式が日一日と迫ってくる中、次第に思いと動きがつながり、自然なものになっていくのでしょう。

 通学班は、卒業前に、再編成、新年度をふまえて、新しい班長さんのもと、新しい通学班登校がはじまりました。

 朝、眺めてみると、その班はいつもより少し登校時間が早く、見守り隊の方たちの立つ交差点に現れました。「早いなあ」の声に、元気のよい「おはようございます」が返ってきました。ランドセル以外に責任という重荷を背負いながらも、やる気と自覚で、その重さを感じさせない表情が、なんとも頼もしく思えました。  

「校長先生、実はね……」と、見守り隊の方が、私に一枚の手紙をみせてくれました。そこには、「いつも感謝の気持ちを伝えたかったのですが、はずかしくて言えませんでした」と見守り隊の方への感謝の気持ちが綴られています。

「長い間、見守り隊をやっているけど、こんなふうに手紙をもらうのは初めてだ」と見守り隊の方は、目を細めながら、その手紙を宝物のようにふところにしまいました。感謝を伝える「ありがとうの会」が先日あったわけですが、本人としてみれば。直接、感謝の意を伝えたいと動かずにはいられなかったのでしょう。一通の手紙の優しさが見守り隊の方に元気を贈ったのでした。

 卒業や進級という節目に、何かをはじめようという気運。子どもたちも、新しい季節に向けて動き始めています。

成長し続ける4年生に


  お話タイムは、子どもたちの話す力、聞く力を高めるため、金曜日の朝の時間に行われている活動です。話し合うテーマは、子どもたちの様子により、彼らが提案したり、教師が考えたりしています。「飼いたいペットは何?」「ディズニーランドとユニバーサルとどちらがいい?」「外国人に薦めたい日本食は?」「30分後に地球が滅亡するなら何をする?」など、さまざまなテーマで話し合われています。

 この日、4年生に注目しました。4年生は、4クラス共通テーマで行われていました。テーマは「最後まで話をしっかり聞くにはどうしたらよいか」傾聴は、高学年でもなかなか難しいことです。いつも活気のある4年生ですが、テーマがテーマだけに、この日は、友達の声をしっかり聞こうと静けさが広がっていました。

 あるクラスは、まず話を聞くことができているかどうかと、自分たちの姿のふりかえりから始めていました。「できていない現状がある」それを受けて、それではその対策を考えようとしていました。また、あるクラスでは、話し手のことを考えて聞くという意識の面と、相手の方向に体や目線を向けるという方法が大事だと考えました。さらに、あるクラスでは、やはりご褒美や罰則がないと、この難題をクリアできないのではないかと考える子が多数いました。こんな意見もありました。「話す人が短くまとめて話す」と聞き手ではなく、話し手に目を向けた鋭い意見に感心しました。

 4つのクラスがどう結論づけたかはわかりませんが、たとえ同じテーマであっても、答えはひとつとは限らない。そこに向けて、どのように考えるかが重要なのだと思います。そうした意味から、4年生は、とてもよい時間を過ごしていると感じました。

  4年生も来年度はいよいよ高学年。話し合いを話し合いだけに終わらせず、次は行動です。先生の話、友達の声に真剣に耳を傾ける姿を、今度は見に行こうと考えています。

遊んでくれてありがとう


 2月も後半。春の気配に、校庭の河津桜も開花し始めました。私も、春の陽気に誘われたわけでもありませんが、長放課になると、校内を回ることにしています。放課時の子どもたちは、授業中には見せなかった素顔が見え、とても楽しいものです。まず何より清々しいのは、子どもたちが「こんにちは」と挨拶を交わしてくれることです。朝の眠そうな「おはようございます」に比べ、元気な「こんにちは」は親近感が沸いてきます。

 さて、この日は、和太鼓の鳴る音が聞こえてきました。行ってみると、新入部員の子たちが、横笛や太鼓の練習中でした。なんとか先輩に追いつこうと懸命でした。音楽室では電子オルガンの練習をしている子も見かけました。これも、何か発表があるのでしょうか。さらに教室はというと、さすがに人数は少ないですが、ノートに朱書きをいれている先生に話しかける子どもたちの輪ができていました。担任の先生は、休む暇がありません。

 5年生の学習室では、5年生が「6年生を送る会」に向けて、準備の真っ最中でした。いよいよ最高学年の自覚が感じられました。よろしくお願いします。

 その部屋の床に、大きな掲示物か寝かされています。見てみると、無数の「ありがとうメッセージ」が貼られているではありませんか。

 1年生のありがとうメッセージを一つ一つ読むと、「いつも遊んでくれてありがとう」「おにごっこしてくれてありがとう」「おんぶやだっこをしてくれてありがとう」と6年生への感謝がいっぱい詰まっていました。

 その6年生はどうだろうと見てみると、やはり1年生に向けたたくさんのメッセージがありました。意外だったのは、1年生に対して「遊んでくれてありがとう」という6年生のコメントが多かったことです。「遊んであげた」と書かず「遊んでくれた」と書いたところに、6年生の優しさ、素朴さを感じずにはいられませんでした。

 「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉は、使えば使うだけ優しくなるものです。今、福岡っ子は、メッセージを書くことで、またひとつ優しくなっているのです。

善行の花


 朝、ゴミ袋を持って、ゴミステーションに向かう子どもをよく見かけます。当たり前のことかもしれませんが、家族の一員として、働いているなあと、ほっとする瞬間です。よいおこないです。

 よいおこないと言えば、昨年6月、本校は、地域貢献という項目で、日本善行会から表彰を受けました。このことは、以前の良友でお知らせさせていただきました。地域の人たちに支えられた栄えある賞でした。その賞をいただいたおかげと言いますか、その後地域の方からさまざまなお褒めの声が届いています。

 なまず池の掃除を手伝ってくれたという5年生、逃げ出した飼い犬を保護してくれた6年生と3年生、スポーツ広場を大切に使っている子どもたちと隣接する花壇の手入れを手伝ってくれた1年生、そして、下校途中けがをした子どもの世話をしてくれた高学年の子などです。

 地域からの声がなかったら、これらの善行は、埋もれていたかもしれません。地域の皆さんによって、子どものよいおこないが日の目を見たと思うと、その心遣いに感謝せずにはいられません。ありがとうございました。

 ただその一方で、子どもたちが、よいおこないばかりしているわけではありません。交通ルールを守らない、下校が危険、公共物を大切に扱わないとか、課題があることも事実です。 

 立春を迎え、花壇では、用務員さんが育てた菜の花がほころびはじめています。3月の声を聞く頃には、満開になっているでしょう。花一輪一輪が次々と開き、少しずつ地面を埋めていくように、善行の花を一つ一つ咲かせて、欠点や短所が見えなくなることを、菜の花を見ながら祈っています。

朝の優しい時間

 毎週火曜日の朝は、読み聞かせの時間です。教室では、子どもたちが車座になって、図書ボランティアの方を待っています。図書ボラのお母さんたちは、毎週家庭や市の図書館、本屋さんで選んだ、とっておきの話を持参してくださいます。

 お話が始まりますと、ざわついていた空気も、魔法をかけたようにしいんと静まります。先生たちも、子どもの輪に中に座り込んで、子どもの目線で子どもといっしょに、お話の世界に入っていきます。低学年の子の中には、先生の膝の中に入って、親子のように聴き入っている姿もあります。一日の中で、教室の空気が、学級から家族に変わるのはこのときです。

 読み聞かせをしてくださる方もさまざまです。登場人物と地の文で声色を変え、臨場感豊かに読むお母さん、あえてたんたんと朗読し、子どもの想像力をかきたてるお母さん、クイズや子どもへの語りかけをして、子どもの反応を楽しみながら、話をすすめるお母さん。先日は、男性の方もサポートに来ていただきました。さすがお父さん、抑揚と迫力のある語り口に、すっかり子どもたちはとりこになっていました。

なかには、入学前のお子さんを連れて、お話を聞かせてくれる方もいます。お話が始まると、そのちびっこもお母さんの方に向きを変えていっしょにお話を聞いています。はじめはこの子に「かわいい」とつぶやいた女の子たちも、その様子にあわてて、お母さんに視線を向けます。

 子どもたちが、落ち着いて安全に、一日のスタートを切れるのも、こうした優しい時間をくぐっているからだと思います。図書ボラだけではありません。さまざまな校区の方たちが、授業や行事や環境整備に関わってくださり、目に見えない心の栄養をいただいて、子どもは成長していくのでしょう。いつもありがとうございます。

 ところで、先日行った学校評価アンケートでは、図書館の利用の少ない傾向が表れていました。今、図書館では、節分、バレンタインと、春に向かって飾りつけがされています。本市でも有数の本校図書館の利用を、全職員で充実させたいと取り組んでいるさなかです。  

きっかけをつくる人に


 放課になると、校庭に星野源の「アイデア」というという曲が流れます。朝ドラの軽快な音楽とともに、一斉に子どもたちが運動場に飛び出していきます。23日の長縄大会に向けて、練習は佳境を迎えています。遠くから見ると、広いグランドという海が波打つように、あちこちで長縄の波が生まれています。

 本番まで一週間を切りました。それぞれの学年の掲示板には、福岡ギネス記録とともに、現在の記録が書き込まれています。117日現在の最高記録は、あすなろ298回、1年生が299回を、2年生251回、3年生303回、4年生414回、5年生674回、6年生568回と記されていました。記録は、随時書き直され、数字をふき消したプレートの汚れが、日々の記録更新を物語っています。とりわけ6年生は、最後の大会ということで、学年掲示にも「クラスでまとまる」「みんなで楽しむ」「友達のよさを見つける」「体力をつける」「声をかけあう」ように、大会に寄せる意気込みが並んでいました。

 実際にそれぞれの長縄に寄ってみますと、低学年の子の中には、まだまだ縄に飛び込むことに躊躇している子もいます。すると、どうでしょう。後ろの子が飛び込むタイミングを推し量って、そっと背中を押しているではありませんか。つんのめるほど強くなく、戸惑うような弱さでもなく、絶妙の強さに優しさがありました。また、中学年や高学年においても、「ハイ、ハイ、ハイ」と声でリズムをとって、クラス全体で飛び込むきっかけを作っていました。

 人が成長するときは、きっかけがあるものです。自転車に初めて乗れたときも、跳び箱を初めて跳べたときも、おそらくそうだったでしょう。世界で活躍する野球の大谷選手も、将棋界で活躍する藤井七段も、こんにちがあるのは、飛躍のきっかけとなった出会いがあったに違いありません。私たちは、成功した人に目を向け、称賛を送りがちですが、その陰にいる人や集団の存在を忘れてはならないと感じています  

特別な思いをもって


 年明け早々、和太鼓部の子どもたちは、成人式に向けて、練習をスタートさせています。新成人を迎えた先輩たちへのはなむけとして、和太鼓演奏は、本校では、恒例のイベントになっています。

真冬の冷たい空気の中、儀式の前座という緊張感あふれる場で、しかも冬休みがあり練習不足を否めない状況での演奏は、さぞ大変なことでしょう。子どもたちは、そうしたリスクをバチでふるい落とすかのように、テンポや間合いを確かめながら、熱の入った練習に励んでいました。

 新成人の皆さんは、今から8年前、平成23年に本校を卒業した子どもたちです。この年は、3月11日、東日本大震災が東北地方を襲い、多くの人々が尊い命を失いました。その中には、卒業式を前に津波にのみこまれ、今年成人式を迎えられない同学年の人たちもいたはずです。そう考えると、大人になるという、いかにも当たり前のことが、特別なことに思えてなりません。

 和太鼓部の6年生も、これまで当たり前に練習してきた毎日が、卒業と同時になくなるわけです。彼ら自身、最後の発表の場として、特別な思いをもって演奏に臨んでくれるに違いありません。また、和太鼓部でなくても、6年生の皆さんも同様です。小学校生活という当たり前だった毎日が、卒業というゴールが見えてきたとき、急にかけがえのない時間に思えてくるものです。ぜひ、1日1日大切に過ごしてほしいと思います。

 みなさんが成人式を迎えるころは、どんな時代が、どんな世の中が訪れているでしょうか。平成の最後の今、あなたの夢を新たな時代に向かって掲げてみてください。  

自信の種

 老人会のみなさんをお招きし、昔遊びの会を行いました。

 体育館では、だるま落とし、めんこ、けん玉、ぎしぎしとんぼ、竹とんぼ、ヨーヨー、折り紙、おはじき、お手玉、あやとり、コマと、さまざまな昔遊びが用意され、1年生とが関わり合う場がひろがっていました。

 はじめの式が終わり、いよいよ始まりです。

 各コーナーに赴いた1年生にとっては、はじめての経験、不安や緊張をまとって、遊び道具を手にとったことでしょう。もしかしたら躊躇していたかもしれない。しかし、お年寄りの皆さんの励ましと笑顔に背中を押され、「勇気を出してトライ」の言葉通り、挑戦をしました。

 一回ではできなかったかもしれない。でも何回か繰り返しているうちにコツを覚え、たまたまできたその一回に、お年寄りが「すごい、すごい」のほめほめシャワーを浴びせます。その言葉に子どもは大喜び、その一回が大切な自信につながっていきました。

 子どもたちは、こんなふうに、体験を通して自信の種を心に植えながら成長していきます。それは、ゲームでは味わえない感覚です。そして、その種が芽吹き、いつか「鉄棒で逆上がりができたよ」「縄跳びで二重跳びが跳べたよ」「フラフープができたよ」「自転車が乗れたよと」いうように、さまざまな「できた」の花を咲かせていくのです。

 時を同じくして、校長室では、2年生の九九検定がスタートしました。学校探検以来の入室に緊張は隠せません。言い始めの4の段は、いつもは楽勝なのに、少しもたつきます。それでも、難関の7の段を言い切り、認定証を手にしたその笑顔は、昔遊びの顔と、どこか似ている気がしました。

 校長室でも、寒い冬とはいえ、「できた」の花が、満開になっています。

走るということ

 12月になりました。先生方が忙しそうに走っている姿を見ると、まさに師走だなあと感じます。

 しかし、子どもたちも今、教員に負けないくらい走っています。校内持久走大会や駅伝大会を間近に控え、一日中、校庭は、白熱した走りに包まれます。

まず、午前のかけあしタイムでは、運動場を全校児童が走ります。先生たちが逆走してすれ違う子に声をかけ続けたり、ペースメーカーとなって子どもたちを先導したりと、走りに手抜きがないように、厳しくも温かいまなざしや励ましが子どもたちの心をとらえます。

次に、昼放課は自主練習です。ドッチビーや鬼ごっこなどで遊んでいる子のまわりを走っています。高学年と低学年が仲良く走る姿は、なんと微笑ましいことでしょう。お兄さん、お姉さんと走る低学年も、かわいい弟、妹たちと走る高学年の表情も、笑顔があふれ、とても幸せそうです。

最後に、夕方の部活動。ただ黙々と走り込んでいる姿は、厳しい自分との闘いです。何周もグランドを回ります。周回ごとに、顧問の先生からの「あと20秒」「ペースを上げろ」の大声に、心のアクセルを踏んで、ペースを上げていく子どもたちがいます。時間との闘いです。そして、ついにラスト一周、走り終えた仲間たちから「がんばれ」「ファイト」という声がとどろきます。その声に、歯を食いしばって再び手をふり、足をあげます。仲間が待ち受けるゴールに、駆けこんでいく風景は、西日に照らされてとても美しく感じます。

 走ることは人生とよく似ています。毎日同じようでも決して同じでない一周一周を、いろいろな人やことばと出会いながら、心や力を磨いていくのです。

アリガトウノカタチ

福岡っ子発表会の4年生「イノチノカタチ」の中で、「お父さん、お母さん、ありがとう」という台詞が心に残りました。10歳の節目を迎える4年生にとって、いのちの重さを学び、自分の成長を見つめたとき、そこにはかけがえのない父さん、母さんの存在があった。そんな感謝の心が演技に表れていました。

道徳科が教科になり、感謝の心を教えるわけですが、授業の中でその心はなかなか育つものではありません。やはり「ありがとう」という言葉を使ったり、行動に示したりと形にして、人は育つのでしょう。

給食終了後の配膳室を話題にします。配膳室の前に一列に並んだ子どもたちが、一斉に「ありがとうございました 今日も美味しかったです」元気のよい感謝の気持ちを伝えます。室内にさわやかな空気が流れ、給食従業員の定盛さん、牧野さんや栄養教諭の近藤先生も、一瞬動きを止めて、その声に笑顔で応えてくれます。が、挨拶がすむと、彼女たちはすぐさま動き出します。センターから食器回収に来るのが、13:3015分足らずですべての作業を完了しなければならないからです。傍から見ていると、牛乳もそうですが、全クラスの食缶を一つ一つ逆さにして残食を他の容器に集める作業がいかにも大変そうです。なかには残食のたくさん入った重そうな食缶もありました。空にした食缶や食器のかごは、大きなコンテナに載せられ、外に運び出されてトラックの来るのを待ちます。そんな手際のよい一連の動きに、給食委員の子たちも協力してくれているのです。これもアリガトウの形です。

 クラスで残食を減らすことは、自らの健康とともに、給食の従業員さんを楽にしてあげることにもつながる。これもアリガトウを形にすることだったのです。  

待ってました


 給食の配膳車を押して、職員室前を悠然と歩む老人がいました。長いひげに、黄色い和帽子、そして袴、よく見ればご老公様ではありませんか。今年の福岡っ子発表会、あすなろ学級の出し物は、木原和子脚本「水戸黄門」だそうです。ご老公様は、このあとすぐの体育館練習に備え先に衣装を着替え、格さんと助さんをしたがえ、食器の片づけに向かう道中だったのです。

 さっそく私もその姿に誘われて体育館を覗いてみますと、舞台には、ご老公一行、村人、盗人に扮したあすなろ学級の子どもたちが元気いっぱい演技をしていました。

この水戸黄門のドラマは、私が幼いころから放映されており、何代か主演男優がかわりながら平成時代まで続いています。クライマックスの時間帯になると、「控えおろう、……この紋どころが目に入らぬか」とかざした印籠に、これまで躍動感にあふれた空気が一転静まり、おきまりのBGMとともに、ひれ伏す悪者たちの光景が印象的です。待ってました!と言わんばかりに、心がスカッとしたことを覚えています。私たちは、この瞬間をいつも待っていたのでした。

 福岡っ子発表会に向けて、今練習の佳境を迎えています。各学年、黄門様のような主役は、一握りの子かもしれませんが、すべての子ども一人一人にストーリーがあり、クライマックスがあります。子どもたちは、自分の出番に備えて、台詞を心の中で何度も復唱し、そして、きたるべきそのとき、動きや表情を添えて力いっぱい表現するのです。保護者の皆様は、印籠をかかげるような思いで語る、我が子の出番に、ひれ伏す必要はありませんが、拍手や笑い、涙を届けていただけるとありがたいと思います。         

声を出して失敗を取り返す


 
 サッカーの決勝トーナメントが東田小学校で開かれた。本校は幸小と対戦。幸小は、テクニック、キック力に優れ、何度も福岡のゴールを脅かした。本校の子どもたちは、ボールに喰らいつき、全員でゴールを死守し、そこから全員で懸命に走った。結局、0対1で敗れたが、ナイスゲームであった。

 前々日の金曜日は、最後の練習だった。西日を浴びながら、広いグランドを駆けまわる選手たちがいた。最後だから自分の目に収めようと外に出ると、「こんにちは」と大きな挨拶が聞こえた。この日は、ゲーム形式の練習だった。時間短縮のために、コート外に出てしまったボールは追うことをせず、ストックしてあるボールを次々とコート内に蹴りこみ、途切れることのない練習を続けた。挨拶のお礼でもないが、コートの外に点々と転がるボールを拾い集めることにした。幼い頃、こうして夢中になって球拾いして、サッカーが楽しくて楽しくて仕方がないことを思い出していた。そんなときコートの中から「声を出して 失敗を取り返せ!!」と大きな声が響いた。ミスした子へのチームメイトの呼びかけである。失敗はだれにでもある。コミュニケーションを取り合って、ピンチを乗り越えようという意味なのだろう。その声に反応したのか、一声返して走り出した子どもがいた。勢いのある練習風景だった。

 決勝トーナメント、相手の巧みなプレーと強力な守りに、確かにミスはあった。しかし、声を出して合って、カバーする姿は、一昨日の練習そのままであった。

 「声を出して失敗を取り返せ。」子どもだけでなく、私たち大人が、人と関わって生きていく上で通じるこの精神は、私がグランドで拾った珠玉の言葉である。 

食欲の秋に


 中庭の小さな田んぼには、稲刈りをした切り株から、葉が出て、再び小さな稲穂が揺れていました。また、昨年3年生が植えたカキの木は、オレンジ色のカキが実っていました。何度か台風の風や雨にさらされながらも、しっかりと枝にしがみついて実りの時を迎えています。実りのシーズンを迎え、校内のさまざまな場で「いのち」の逞しさを感じます。

 そんな中、1年生が6年生の助けを借りてサツマイモ掘りが行われました。昨年の不作だったこともあり、幾分心配されたわけですが、掘ってみると、土の中から次から次へと出てくる大きなサツマイモ。サツマイモを手にした子から歓声が聞こえてきました。豊作です。振り返れば、今年は、異常な暑さとともに、台風も何度か通過し、必ずしもよい気象条件ではなかったはずです。

 私たちは、本来手間をかけるほど、あるいはよい環境ほど、生き物は育つと思いがちです。しかし、サツマイモは、厳しく放任して育つものだと言われています。肥料や水を十分与え過ぎると、葉っぱやツルばかりに養分が行ってしまうそうです。厳しい環境だからこそ、じっと根に栄養を蓄え、それが立派なサツマイモになるのでしょう。

 八十八回手間かけると言われる米のように、手間の要る植物もあれば、モモクリ3年カキ8年と、時間も要するものもあります。そして、サツマイモのように、厳しさにさらした方がよいものもあります。そう考えると、子どもたちの育て方に何か通じるかもしれません。

 栄養と言えば、先日の学校保健委員会では、「なんでも食べて、元気もりもり」というテーマで、朝食について勉強しました。近藤栄養教諭から、朝ごはん簡単野菜レシピの紹介もありました。保護者の皆様、ここは、我が子の朝食づくりをぜひ見守ってあげてください。

羽ばたけ 6年生


 土曜日、体育館を覗いてみると、バスケットボール部の練習試合が行われていました。相手が強かったこともありますが、男子も女子も苦戦を強いられていました。子どもたちは腰高で安定せず、ボールがなかなか手につきません。そうです。昨日まで修学旅行で、この数日間全く練習する時間がありませんでした。疲れや眠さが残る、万全でないコンディションであっても、失敗、ミスに腐ることなく必死でボールを追いかける姿に、むしろ感動さえ覚えました。これが6年生の成長した姿なのでした。一方、バレー部もこの日試合で、早朝から集合し、他校に赴いていました。あいさつもプレーもいつの間にかよくなっていたと、試合後の顧問の先生の言葉。ここにも成長の跡がありました。

 さて、その修学旅行はと言いますと、奈良地方は「雨」という天気予報でしたが、一度も傘をさすことなく、順調に進めることができました。振り返れば、昨年の野外活動の時もそうでした。センターに到着する頃に雨が上がり、日がさしてきたことを思い出しました。心がけもいいのでしょう。

 その心がけですが、奈良公園の班別分散学習の場面にもありました。現地はシカに加え、修学旅行生、外国人旅行客があふれ、歩くことさえままなりません。そんな状況の中、時間通りに行動しようとする班が数多く見られました。班の中には、シカが苦手な子もいます。だから、班の歩みもずいぶん遅くなるわけです。しかし、その子を見捨てることもなく、シカたちの壁になって進む子どもたちは、まさに要人を守るSPのようでした。約束を守りつつも、大切なものを見失わない6年生。その姿にも、この一年間の成長を感じずにいられませんでした。

 次の山場の福岡っ子発表会は、「火の鳥」という作品だそうです。今回の目的地、平安京、平城京からさらに時をさかのぼって、古墳時代のお話だそうです。卒業まで半年を切って、火の鳥のように、さらに飛躍してくれると信じています。

プラタナス倒れる


   台風24号は、東三河地方に甚大な被害を与えました。

 本校も、東側道路側のプラタナスの巨木が、根元からなぎ倒され、遊具に覆いかぶさるようになっていました。この巨大な木が横たわっている状況に、改めて風雨の強さを思い知らされたと同時に、道路や建物ではなく、迷惑の少ないところに、倒れてくれたことに感謝しました。

 本校自慢のこのプラタナスは、まだ数本ありますので、今後台風が襲来したとき、ほかの樹は大丈夫かと心配が募ります。が、思えば、倒れたこのプラタナスは、秋になって根元や幹や枝に、多くのキノコが寄生していたことを思い出しました。そのことを校務主任に尋ねてみると、木が弱っていたり、抵抗力がなくなっていたりしているのではないかという答えが返ってきました。木は辛いとか疲れたと言葉に発してくれません。あのキノコは、プラタナスのSOSだったのかもしれません。

 子どもたちの中にも、辛いこと、苦しいこと、なかなか言葉に出せない子がいます。キノコではありませんが、私たちは言葉にならない声にしっかり耳を傾けないといけないと、プラタナスを見て感じました。

 台風一過のこの日、停電が続き、信号も一部復旧していませんでしたが、安全を確認し、通常通り日課をスタートしました。ご家庭には、ご迷惑をおかけしました。
   豪雨や台風、地震など日本中が被災している現在、不便な生活は、私たちにたくさんの教訓を与えてくれています。豊橋の南の位置する我が家も、この日も停電が復旧せず、被災地を想いながら、ろうそくの灯りでおにぎりの味を噛みしめました。










大人の本気にぶつかって


 北海道で大地震がありました。今、体育館に集い、円陣で仲良くおにぎりを食べている子どもたちを見ていると、つい避難所の生活に思いを馳せてしまいます。

 しかし、今日のお泊り会の子どもたちの表情には、待ちに待ったという満足感があふれています。さっきまで、キャンプファイヤーで歌ったり踊ったりゲームをしたり、そして、後半はおやじの会と先生によるトーチトワリングの華麗な演技、ダイナミックな花火を堪能し、本当に心は満腹だった気がします。

その余韻が冷めやらぬ子どもたちですから、当然のこと、気が緩んでしまいます。するとすかさず、そこにおやじの会の方々の「喝」が飛びます。その声に思わず神妙な顔になる子どもたちです。こうして、大人が本気をぶつけることで、子どもたちは、規律や気配り、仲間意識を身につけていくのです。

おや、今先生たちは、次の肝試しに向けて、おばけに変身しようとしています。今年は、おやじの会の執念に感化されてか、一段と気合が入っています。大胆な衣装を身にまとい、特殊メイクをし、となりの先生が思わず吹き出したり、こわがったりしています。このあとお化け屋敷と化した学校のあちこちで悲鳴が上がることでしょう。

今、いずれ起こるとされる南海トラフ地震ですが、大人の本気を受け止めた子どもたちは、もしもの時、この体育館の避難所要員として、がんばってくれると確信しています。

想い出の灯をともす

 6年生の学年掲示板には、修学旅行のコーナーが設けられています。目標や約束が示され、各クラスでは、班づくりや調べ学習が進められていると聞きました。修学旅行もひとつきを切り、近づいてきたなという実感があります。一方、野外活動は一週間後に迫りました。5年生の学年掲示板には、当日までの日数を数えたカウントダウン日めくりがありました。一枚一枚繰るごとに野外活動への思いを膨らませていることでしょう。

 ふれあいルームでは、トーチトワリングの練習が佳境を迎えていました。キャンプカウンセラーの経験をもつ達矢先生の指導のもと、ついに28名の精鋭が合格したと聞いています。振り返れば、いつもランドセルにトーチ棒を挟んで登校する姿が印象的でした。おそらく家庭で何度もトワリングの練習をしていたことでしょう。頑張りました。

今では、危険防止という視点から、火を使わずケミカルライトのトーチ棒で行う学校もあるそうです。が、危険だからといって子どもから遠ざけるのではなく、火は人にとって欠かせないものだと上手に付き合っていくのも重要です。地震や台風も人の手で回避できませんし、火を扱うことは危険に対処する意味で防災の学びにもつながっていくと思うのです。

野外教育センターが完成したのは私が5年生のときで、いわゆるここでの体験活動第1回生です。あのころの想い出はほぼ忘れてしまいましたが、長い階段と青い海、そして、わくわくして眠れなかったことを今でも忘れられません。

 1泊2日の短い時間ですが、準備にかける時間や思いが多ければ多いほど、子どもたちの想い出への刻みが深くなるものです。大人へと成長していくロードに、想い出の炎がともし続けられたらと思います。ご家庭でも、保護者の皆様自身の想い出を語ることで、我が子の心に、火をつけていただけませんか。

樹の名は

 今年は次から次へと台風が襲来しています。94日は、台風21号が四国、関西地方に上陸し、愛知県の学校も休校になりました。思えば、その前々日は校区の運動会が開催されたわけですが、町別対抗のリレーをはじめ、さまざまな競技で奮闘した子どもたちのよい休養日になったのではないでしょうか。

 さて、運動会の翌日3日の夏休み明け集会では、日焼けの色が眩しい元気な顔が戻ってきました。集会の中で、水泳大会や読書感想文の表彰後、福岡の校庭の森の話をすることにしました。

 実は、この夏、本校の豊かな樹々の名を一本一本調べたようと思い立ちました。しかし、これが思わぬ苦戦を強いられることになったのです。夏場は花の季節ではなく、花から木の名を探り当てることはできません。枝ぶりや樹全体の写真を撮り、樹木図鑑と見比べたわけですが、これが全然わかりません。最終的に、ユリノキ、トウカエデ、アメリカスズカケノキ等、その名にたどり着くことができたのは、樹皮の色や模様を確認し、さらに葉を切り取って、何回か図鑑と照らし合わせたからでした。しっかりつき合わないと、樹は名前を教えてくれんなあと、思わずつぶやいてしまいました。

 遠くから見たり、近くで観察したりと、深くかかわって、わかる樹の名前。これは、人も同じです。何度も何度も関わって、その人のことが見えてくる。子どもと子どもが、大人と子どもが、さらに大人同士がかかわりあって進められていた、あの校区の運動会のように、心のつながりを大切にした福岡小学校を作りあげてきたいと改めて感じています。

初陣

 テレビをつけると、高校野球の開会式をやっていました。今年は、100回目の記念大会だそうです。「野球ができることの幸せ」ということばが印象的でした。遠く昔は、戦争により大会そのものが開催できず、野球をすることすら叶わず戦禍に散っていった球児たちもいました。最近においては、西日本豪雨により甚大な被害をうけた被災地では、野球どころではなかったでしょう。歴史や現実をふまえたとき「野球ができる」幸せがより重く受け止めることができました。甲子園では、「野球ができる幸せ」を球児たちはプレーで体現し、私たちに多くの感動を与えてくれました。

 しかし、子どもたちにとって本物の感動は、本人の体験の中にあります。小学生のコンサートでは、市内の仲間たちと心ひとつに歌声で共鳴し合い、水泳大会では、自己ベストをめざした個人の泳ぎとともに、リレーで「チーム福岡」を感じるなど、会場には、甲子園に負けないドラマがありました。

 夏休みも後半に入り、バレー、バスケットボール、サッカー部と、10月の球技大会に向けて、練習試合が始まりました。猛暑が続いた今年は、練習時間も十分でなく、初陣の子どもたちの表情も、今ひとつ自信がなさそうです。そして、いざ試合が始まっても、動きがわからない、ミスを繰り返してしまうなど、ぎこちなさばかりが目立っています。その姿に、下を向くな、声を出せ、傍から見ていて声をかけずにはいられませんでした。まだ始まったばかり、失敗は成功への布石です、あなたの心がけ次第で、今日の失敗がいつしか感動という輝きを引き出してくれるのです。「プレーができる楽しさ」を感じながら頑張ってほしいと願うこの頃です。

夏休み前の熱くて濃いひととき 

  夏休み前の最後の日、今年も泳力補充が行われました。水泳が苦手な子へのマンツーマン指導、4年生以上35人ほどの子どもたちに全職員が指導にあたります。泳ぎの得意な先生はさすがに技術指導がうまく、泳ぎが得意でない先生は泳げない子の気持ちがわかる、それぞれの立場から、さまざまなアプローチで子どもに迫ります。自ら泳ぎフォームの手本を示す先生、目標地点を示し声をかけ続ける先生、道具を使って泳げるという感覚を味わわせようとする先生、子どもと同じ気持ちになっていっしょに泳ぐ先生。子どもと先生とが一つの目標に向かう姿を、昔泳ぎが不得意だった私は、こんな先生たちに指導してもらえたらと、憧れに近い気持ちで眺めていました。

 そして、最後は泳力試験。先生たちが一斉に応援団に変わり、一人一人に声援のシャワーを浴びせます。目標達成の子もいます。残念だった子もいます。が、プールから上がったどの子の表情も清々しさにあふれていました。この時間で伸びた全員の総距離は259メートル、熱くて濃い水泳指導のひとときでした。

 熱くて濃いのは、プールだけではありません。外では、PTAの皆さんが、フェスティバルの会場設営や物品搬入、最終打ち合わせと、汗だくとなって走り回っていました。ありがとうございました。この熱くて濃い時間が明日のわくわくの福岡ふれあいフェスティバルを支えてくれたのです。    

福岡っ子の安全を祈って

 1年に一度の七夕の日に、西日本では数十年に一度という記録的な豪雨が発生し、川の氾濫や土砂崩れで、多くの尊い命が奪われました。また、同じ日に、関東では震度5弱の地震があり、大阪地震の再来かと緊張感が走りました。

 自然災害だけではありません。5月には新潟で小学生連れ去り殺人・死体遺棄、先日は、富山で拳銃をもった男が小学校に侵入するという不審者の事件も記憶に新しいところです。

 豊橋市においても、7月登校途中の中学生の自転車が、右折するトラックに巻き込まれ、いのちを落とすという事故がありました。事故現場には、お供えの花やお菓子がうず高く積まれていました。黄昏時現場を通ると、その交差点で信号待ちをしている親子づれ3人が目に入りました。2人の小学生の手には、花束がありました。横断歩道を渡って、花を手向け、お参りをするのでしょう。

 やがて信号は青になりました。2人の小学生は、右手を天に突き出すように、まっすぐあげて、渡り始めます。交差点に止まっている運転手にも、亡くなった少年にも見えるようにと、その手を高く高くかざす姿が、事故の悲劇を訴えている気がしました。

 福岡校区も、狭い路地や坂道が多く、交通事情は心配です。また、大雨の時は柳生川をはじめ河川の氾濫も予想されますし、不審者情報も少なくありません。個人懇談後は、楽しみな夏休みですが、心配の種は尽きることはありません。もしものときのために、判断する、自制する、動き出す、子どもの心に道標が必要です。私たち大人は、子どもの心に留まるような言葉を発し続けならないのです。

大好きだよ

大好きだよ」

まっさらな用紙に、このことばが一行ありました。あすなろ郵便で届いた一通のハガキです。差出人は1年生でした。50歳以上離れた女性からの告白に、年甲斐もなくときめいてしまいました。こんなまっすぐな純真な気持ちを、私はいつごろからか忘れてしまっていました。

 そういえば先日、2年生の教室で、「お手紙」というお話で、真剣な話し合いの授業がされていました。一度も手紙をもらったことのないガマくん、手紙を待ちわびる切ない彼の思いが描かれています。そして、ついにカエル君からのはじめての手紙をもらった感激。私は、ガマ君の気持ちが痛いほどよくわかります。

 メールやライン全盛時代にあって、こうした手作りのものは、時間や手間がかかった分だけ本人にぬくもりや感動を届けてくれるものです。あすなろ学級の郵便屋さん、優しい気持ちも届けてくれ、ありがとうございました。

 7月になりました。斎藤司書さんや図書館ボランティアのみなさんによって、笹飾りがとりつけられ、図書館に手作りの七夕の空間が生まれました。笹飾りの短冊には、「1年生のお手本になれますように」「弟の中耳炎が治ってプールに入れますように」とここにも優しさが並んでいます。

 いよいよ5日には、恒例のスターフェスティバル(七夕会)が開かれます。地域のみなさんが、竹の切り出しから飾り物づくりまで、下準備をしっかりしていただき、まさに至れり尽くせりの手作りの催しです。ありがとうございます。私は、地域の皆さんに「大好きだよ」と短冊に書いて、感謝の気持ちを届けたくなりました。