日誌

全校

逆境をくぐる


 校長室で仕事をしていると、胡蝶蘭の花がぽとりと床に落ちました。2年前に本校に赴任したお祝いにいただいた花で、あれから株分けをしただけなのに、今年もそれぞれの鉢に美しい花を咲かせてくれました。ゴールデンウィークから開花していましたので、2か月も咲いてくれていたことになります。

 その胡蝶蘭のことですが、知人からこんなことを聞きました。蘭は気持ちのよいときに花は咲かない。これ以上追い込むと枯れるかなというくらいのとき、立派な花を咲かせる。思えば、来客や出張、事務仕事に追われ、うっかり水や肥料を与えることを忘れてばかり。この放任という逆境が、この花たちを咲かせるエネルギーを生んだのだと思いました。

 花と言えば、1年生の教室前では、アサガオが満開です。疲れた表情で登校した子どもたちも、アサガオを目にすると、小走りに駆けよっていく姿を見かけます。「願いがかなった」という子どもの声にあるように、大輪の花には、水や肥料だけでなく、ことばや思いという愛情がいっぱい注がれています。ただ、アサガオが開花する条件に目を向ければ、夜という真っ暗な闇が不可欠だそうです。アサガオの凛とした美しさは、ひっそりと孤独の夜をくぐった自信の表れかもしれません。

 さて、陸上大会。子どもたちは、大健闘でした。私の心をとらえたのは、結果を出せなかった子どもの涙です。ゴール直前で転倒し、結果を出せなかった。リレーでバトンを受けたのに追い抜かれ、順位を守れなかった。陸上大会は、歓喜や感動とともに、たくさんの「もう一息」があり、挫折や失望も連れてきます。あなたの悔し涙は、胡蝶蘭やアサガオが花をつけるためにそうであるように、次の飛躍のためのつらい時間ではなかったでしょうか。

 スタンドの控え席に戻ったあなたは、仲間からの「よくがんばった」という労いのシャワーを浴びました。大丈夫、逆境をくぐった人は強くなります。

とっておきの場所

 

 「あの遊具は、うちのおやじが作ったんだ」と校区の方が教えてくれました。あの遊具とは、本校の校庭にある、鉄の棒がずらりと並んだ上り棒です。当時、体力づくりの一環で、学校から要請があり、請け負って作られたと聞きました。「学校に自分の作品が、こうして未だに残っているなんて、すごいですね」と私が言うと、「そうそう、おやじにとっては、とっておきの場所」と答えてくださいました。

「とっておきの場所」と言えば、先日、かわいいお客さんが多数、校長室に来室されました。校長室にあふれんばかりのお客さんたちは、はじめて入室したその部屋を珍しそうにぐるりと見渡します。すると、何かひらめいたように、いきなりカーペットに着座して、鉛筆を走らせ始めました。1年生の学校探検。けっこう長時間、無心にスケッチを描き続けました。そして用事がすみ退室するときには、「ありがとうございました。失礼しました。」の声。行儀のよい来訪者のスケッチは、1年生昇降口に展示されました。果たしてお気に入りの場所になったでしょうか。

 一方、6年生の掲示板に行くと、想い出の場所の水彩画がありました。1年生と違い、彼らの絵には、5年間余りの学校生活という経験が上積みされ、思い入れがあります。「友と楽しく遊んだ」「部活動でがんばった」「1年生のお世話した」と いつも何気なく眺めているところも、想い出のフィルターを通すと、そこに頑張った自分がいることがわかります。6年生のみなさん、想い出を紡ぐのは、まだまだこれからです。

 さて、学校開放日、ご来校ありがとうございました。悪天候でしたが、親子下校いかがでしたか。我が子と傘を寄せ合いながら曲がったあの角も、今朝は女子中学生の待ち合わせ場所でした。通学路にもとっておきの場所があるのでしょう。家路へと急ぐ道すがら、想い出をたぐり寄せると、大切な場所が見つかるかもしれません。

各駅停車

 

 「ぶらり途中下車の旅」という番組ではありませんが、校長室から各教室へ、途中下車するように歩くことが日課になっています。

ある教室は、「算数の友」を各自取り組んでいました。課題が黒板に記され、できあがるとそれを先生に見せにいきます。「できたあ」の声とともに、先を争うように、先生のところに駆けこむ子たちがいます。できた喜びをいち早く先生に伝えたい、それが子ども心でしょう。が、私が注目した子は違いました。静かに席を立つと、床に落ちている鉛筆をおもむろに拾い持ち主に届け、解き方に困っている子には、小声でアドバイスするなど、なんともゆったりした歩調です。結局、彼は、最後尾に平然と並びました。「ゆっくり」も悪くないなあと思い、教室を出ました。

また、ある教室では、話し合いの授業が行われていました。活発な意見交流です。発言内容に耳を澄ますと、「○○君につけたしで……」「○○さんと少し違って……」と、仲間に敬意を表すように、発言の枕詞に友達の名前をつけていました。黒板にはたくさんの子の名前のプレートが並びました。先生が考えた授業の道すじに、おのおのの子が考えを上書きしていく授業。「どっちがいいんだ?」の先生の質問に、結論を急ぐのではなく、ああでもない、こうでもないと各駅停車しながら、進んでいました。そして、最後は「どちらも悪くない。大事なことは、歩みたい人生を自分で判断することです」と大人顔負けの人生観ともいうべき意見に、授業の終末がきゅっと締まりました。

 図書館に行くと、1年生とあすなろ学級の子が本を選んで読んでいました。1年生は、お気に入りの本を私に見せてくれました。あすなろのひとりは、テーブルで電車図鑑を熱心にみています。「電車がすきなの?」と聞くと「うん、好き」と答え、東海道線のページをみせてくれました。そこには、各駅停車の電車が並んでいました。各駅停車もなかなかいいものです。   

トンボの羽化


   3年生の教室で、「飼っていたヤゴがトンボになったよ」そんな声が校長室に届きました。さっそく教室に行って水槽の中をのぞいてみると、まだ何匹かのヤゴが残っています。ヤゴは、よく見ると風貌はグロテスク、メダカやオタマジャクシを素早く捕食するハンターだそうです。

羽化は、授業中でした。止まり木でじっとしていたヤゴは、授業に集中する子どもたちの空気に決意したのか、その場で自らの殻をやぶり、一気にトンボになったと聞きました。種別は、赤とんぼでおなじみのアキアカネ。

 ヤゴは、トンボになるまで、10回前後脱皮を繰り返すそうです。初夏の風にのって、軽やかに飛んでいるかのように見えるトンボですが、それは、成虫になるまで脱皮や羽化、幾多の試練を乗り越えた雄姿であることを忘れてはなりません。

 さて、運動会が終わりました。厳しい暑さの中、全力を尽くす子どもたちの姿に感銘を覚えました。子どもたちは、ずいぶんたくましく成長しました。

なかでも、高学年のスタンツの時でした。始まりの音楽とともに演技が始まるわけですが、CDを入れても音が出てきません。子どもたちは、身をかがめたまま、じっとその時を待ちます。直射日光が照りつけ、汗が滴り落ちたでしょう。それでも、彼らは音楽がかかるのをそのままの姿勢で待ち続けたのです。ようやく音が聞こえてきました。逆境に耐え、満を持してそのときを待つ。彼らの姿に、まるでトンボの羽化を見ているようでした

 人間は、ヤゴのように脱皮や羽化はありません。子どもたちは、今日の演技に至るまで、何度も心の脱皮を繰り返し、運動会本番の晴れ舞台で、見事羽化したのではないでしょうか。令和の風に吹かれてゆうゆうと飛んでいるトンボ。それは、本校を支える子どもたちの未来のように思えてきました。

小さな失敗のすすめ


   ひと昔前の話です。私は、仕事で失敗をしてしまいました。他の人からは「大きなミスではないよ」と慰められ、今から思えばたいしたミスではなかったと納得もできるわけですが、当時の私にしてみれば、同僚にかなり迷惑をかけたことですし、その重大さに動揺し、落ち込みも激しかったと思います。

 外に出て頭を冷やしました。そして、自分の席に戻ってみると、一枚の一筆箋が机上に置いてありました。

「大きな失敗をしないために、小さな失敗をしよう」。手書きの文字で書いてありました。先輩の文字でした。「小さな失敗をしよう」という前向きな言葉に、私のへこんだ心は、ずいぶん楽になった気がします。

「小さな失敗をしよう」これまで仕事を続けることができたのも、心のどこかで、この言葉が支えてくれたのかもしれません。

 さて、本校の子どもたちに目を向けますと、いよいよ運動会を間近に控え、その練習が真っ盛りです。教室や運動場のあちこちから、運動会の歌声や応援合戦のかけ声が聞こえてきます。今年のテーマは、「令和の風を巻き起こせ、赤白青の白熱バトル」。競技や演技のバトルの中で、当然「負けた」「できなかった」「恥ずかしかった」と、失敗や挫折もついて回るわけです。現に、運動会で涙したり自信をなくしたりする子を、これまで何度か見てきました。しかし、これらは、長い人生を思えば、小さな失敗です。小さな失敗は、挑戦する勇気と、大きな失敗を回避する見通しを学ぶ貴重な経験だと思うのです。

 今日も、外遊びで、「転んだ」「打った」「ぶつかった」と、何人かの子たちが保健室に足を運んでいます。すこし痛そうですが、けっして暗くない表情を見て安心します。痛みを通して、安全や危険も学ぶ。「将来、大きなけがをしないための、小さなけがなんだよ」。そんな思いで、子どもたちを見守ることにしています。  

鈴の鳴る道


  「おはようございます」 黄色いランドセルカバーの女の子と挨拶を交わしました。ランドセルは重そうですが、上級生のお姉さんの右手をしっかり握りしめて歩む姿は、入学当時に比べると、格段にたくましくなりました。

 朝の陽ざしが道路にさしこみ、子どもたちの影が通学班の後を追いかけるように続いています。なんとも気持ちのよい朝です。ただ今朝の心地よさは、挨拶や笑顔の明るさだけではありません。彼女のランドセルにくくり付けられている鈴が奏でる音が、彼女が歩くたび、チリンチリンと、BGMのように聞こえるのです。ああ、あの鈴の音に、我が子に対する、親御さんの安全や幸せの祈りがこめられているんだなあと思うと、なんともいえぬ気持ちになりました。

 坂を上っていく彼女の後ろ姿を見送っていました。ふと思い出したのは、星野富弘氏の「鈴の鳴る道」というお話です。若き日大けがを負い車いす生活を余儀なくされた作者にとって、道路の段差やでこぼこ道、カーブは、その振動によって苦痛を味わう、避けて通りたい道だったそうです。しかし、その振動によって、ぶらさがっている鈴が得も言われぬ音色を奏でるではありませんか。彼は、逆境を乗り越えると、必ずよいこともあると、鈴から学び、でこぼこもなるべく迂回せずに進もうと決意するのです。

 黄色いランドセルの後ろ姿は、ずいぶん遠くなりました。これから彼女の人生にも、困難や試練が待っていることでしょう。でも、あの足取りの力強さに、彼女は、心の鈴を鳴らしながら成長していくと思わずにはいられませんでした。

あすなろの願い

 

 話は半年前にさかのぼります。福岡っ子発表会で、あすなろ学級の皆さんが、「水戸黄門」を演じたことを覚えていますか。その劇中で、メモ帳をもった謎のじいさんが現れましたね。そのじいさんが、あすなろの黄門様一行にプレゼントします。あれはいったい何でしたか。

正解は、あすなろの木。

 あすなろの木は、ひのきと似通っています。「あすはヒノキのようになろう」から命名されたと言われる「あすなろ」は、ヒノキに劣るイメージがあります。しかし、実際には、強度、耐久性に優れ、ヒノキに負けない材質だそうです。「あすなろ」という言葉自体も、「劣っている」というよりも「向上心があり前向きなもの」としての響きが強く、あすなろ学級のように、いい意味で使われることが多いです。

 昨年度末、ついに本物のあすなろの苗木が届きました。あすなろ学級の子どもたちは、セレモニーを行い、グランド西の遊具の近くに植樹しました。苗木の背丈はまだ1年生より低いですが、いつかは人間の背丈を越え、本校の大樹と肩をならべることでしょう。

 新年度が始まりました。各学年の子どもたちはそれぞれが目標を掲げ、歩み始めました。「算数が苦手だからがんばる」「部活で選手になる」「1年生に優しくなる」「たくさん笑う」と一つ一つ読み進めると、あすなろの木のように、未来にはこうなりたいという思いがひしひしと伝わってきます。

 今、本校の校庭の樹木も、初夏にむかって、若芽が一斉にふきだしています。その風景の美しさは、子どもたちの抱いている明るい夢や未来を思わせてくれます。 

サクラの美しさ


 今年は、サクラが待っていてくれました。

最近は、温暖化の影響か開花が早く、例年、入学式のころは、散り始めているというのが常でした。今年も三月末には、花が開き始め、入学式まではもたないと危惧されたわけですが、月初めの寒波で、満開の日が後ずさりしていったのでした。おかげで、程よいサクラの咲き具合で、入学の日を迎えることができました。

 サクラの花は、咲き始めから散るまでその期間は短く、はかない象徴として、出会いや別れにたとえられます。また、花の色は、白や淡いピンク。品種や気候によって、多少違うようです。ただ注目すべきことは、わずかな期間にかかわらず、花の色が変わっていくということです。開花しても、そこにとどまることなく、変化し続ける、これが、サクラのひとつの魅力なのかもかもしれません。

 入学式前日、新6年生が準備にあたりました。黙々と活動する姿に胸を打たれました。思えば、昨年度の6年生を送る会から今日に至るまで、わずかな期間にもかかわらず、日に日に変わっていく6年生の子どもたちの姿に、サクラの美しさを見た気がします。

 人の成長は、時間ではありません。そこにかける思いが、人を変えていくのです。

 

さあ 始まる

   体育館では、6年生が卒業式の練習中でした。フロア中央にある演台で、証書を授与する一連の所作は、ややぎこちなく不自然さがぬぐいされません。でも、卒業の歌になると、その美しいハーモニーに、会場が一変、卒業の空気に包まれました。卒業式が日一日と迫ってくる中、次第に思いと動きがつながり、自然なものになっていくのでしょう。

 通学班は、卒業前に、再編成、新年度をふまえて、新しい班長さんのもと、新しい通学班登校がはじまりました。

 朝、眺めてみると、その班はいつもより少し登校時間が早く、見守り隊の方たちの立つ交差点に現れました。「早いなあ」の声に、元気のよい「おはようございます」が返ってきました。ランドセル以外に責任という重荷を背負いながらも、やる気と自覚で、その重さを感じさせない表情が、なんとも頼もしく思えました。  

「校長先生、実はね……」と、見守り隊の方が、私に一枚の手紙をみせてくれました。そこには、「いつも感謝の気持ちを伝えたかったのですが、はずかしくて言えませんでした」と見守り隊の方への感謝の気持ちが綴られています。

「長い間、見守り隊をやっているけど、こんなふうに手紙をもらうのは初めてだ」と見守り隊の方は、目を細めながら、その手紙を宝物のようにふところにしまいました。感謝を伝える「ありがとうの会」が先日あったわけですが、本人としてみれば。直接、感謝の意を伝えたいと動かずにはいられなかったのでしょう。一通の手紙の優しさが見守り隊の方に元気を贈ったのでした。

 卒業や進級という節目に、何かをはじめようという気運。子どもたちも、新しい季節に向けて動き始めています。

成長し続ける4年生に


  お話タイムは、子どもたちの話す力、聞く力を高めるため、金曜日の朝の時間に行われている活動です。話し合うテーマは、子どもたちの様子により、彼らが提案したり、教師が考えたりしています。「飼いたいペットは何?」「ディズニーランドとユニバーサルとどちらがいい?」「外国人に薦めたい日本食は?」「30分後に地球が滅亡するなら何をする?」など、さまざまなテーマで話し合われています。

 この日、4年生に注目しました。4年生は、4クラス共通テーマで行われていました。テーマは「最後まで話をしっかり聞くにはどうしたらよいか」傾聴は、高学年でもなかなか難しいことです。いつも活気のある4年生ですが、テーマがテーマだけに、この日は、友達の声をしっかり聞こうと静けさが広がっていました。

 あるクラスは、まず話を聞くことができているかどうかと、自分たちの姿のふりかえりから始めていました。「できていない現状がある」それを受けて、それではその対策を考えようとしていました。また、あるクラスでは、話し手のことを考えて聞くという意識の面と、相手の方向に体や目線を向けるという方法が大事だと考えました。さらに、あるクラスでは、やはりご褒美や罰則がないと、この難題をクリアできないのではないかと考える子が多数いました。こんな意見もありました。「話す人が短くまとめて話す」と聞き手ではなく、話し手に目を向けた鋭い意見に感心しました。

 4つのクラスがどう結論づけたかはわかりませんが、たとえ同じテーマであっても、答えはひとつとは限らない。そこに向けて、どのように考えるかが重要なのだと思います。そうした意味から、4年生は、とてもよい時間を過ごしていると感じました。

  4年生も来年度はいよいよ高学年。話し合いを話し合いだけに終わらせず、次は行動です。先生の話、友達の声に真剣に耳を傾ける姿を、今度は見に行こうと考えています。