全校
始まりの一声
「おはよう、今日もがんばろう」朝、だれもいない教室を覗くと、黒板に始まりの一声がありました。おそらく昨夜、担任の先生が今朝子どもを迎えることばとして書いてくれたのでしょう。子どもたちは、黒板の文字を見て、さあがんばるぞという気持ちになるに違いありません。
するとその時、隣の校舎の窓が次々と開いていく光景が目に入りました。まるで、校舎が、朝の清々しい空気を取り入れようと、息をしているようにも見えます。今日も、用務員さんが足早に施錠を解きながら、校舎を渡り歩いていてくれるのです。私に気づいた用務員さんは、窓から「おはようございます」と声をかけてくれました。
先日、健全育成会の皆さんによるあいさつ運動がありました。
子どもたちは、校門をくぐると、ずらりと並んだ大人たちに迎えられます。「おはようございます」いつもとは違う、多数の大人の声に押されてか、あいさつに今ひとつ元気がありません。なかには、あえて顔を下に向け、その声を避けるように通り過ぎる子もいました。はずかしかったのでしょう。大人たちの「おはようございます」は、寂しげに彼の頭上を通り過ぎていきました。
今、学校では、「勇気を出してトライ」をテーマに、お助けレンジャーにも助けを借り、あいさつ改革に取り組もうとしています。「ここぞ」というときに、大きな声を出せる、そう、大阪で登校時襲った大きな地震や、相次ぐ不審者の事件の教訓から、自分の身を守るすべとして、大きな声で、注意を喚起したり、助けを求めたりできることが重要だと考えたからです。
子どもたちが心の窓を開き、「おはよう」「行ってきます」と放つ元気のよい始まりの一声。この声が、いつか起こる「ここぞ」という場面に「あぶない!」「こっちだよ!」に置き換わり、だれかのいのちを救うと思えてならないのです。紫陽花
梅雨入りだそうです 。
雨に打たれ、揺れている紫陽花の花を見ると、暗い心が和んでいく気がします。
紫陽花は、無数の花が集まって、大輪の花をつくりあげています。その花の見事さは、まるで先日の運動会の時の、赤白青の応援合戦の迫力を思わせてくれます。一つ一つの力はたとえ大きくなくても、それらが結集すれば、こんなに強く美しいものが表現できる。先生たちは、時に紫陽花やたんぽぽを例に挙げながら、クラスの団結力の大切さを諭したものです。
一方、紫陽花は、土壌の性質によって、その花の色が変わる繊細さがあることも聞いたことがあるでしょう。調べてみると、土が酸性ならば青い花が、アルカリ性ならばピンクだそうです。いわば、土という環境が花自体を決めていくとも言えます。
さて,今回、栄えある賞をいただきました。この華やかな受賞は、紫陽花の花のような、子どもたち一人ひとりの心が集まったものだと感じます。
が、忘れてはならないのは、それらが福岡という土壌に花開いているということです。福岡フェスティバルの各種団体の催し、七夕会の笹や飾りの準備、そして、見守り隊、自治会、PTAのみなさんの等の挨拶運動など、思えば、子どもたちを取り巻く人の素晴らしさが次々と浮かんできます。
子どもたちは今、福岡という優しい土壌からたくさんの栄養をいただいて、紫陽花のような美しい花を咲かせているのです。いのちの庭で
5月はじめに種蒔きしたアサガオが本葉を出し、大きな葉っぱの手を広げています。朝、登校した1年生は、ペットボルト片手に、マイアサガオの鉢に走り出していました。2年生の花壇は、野菜畑になっています。トマトをはじめ、あんなに小さかった苗が青々と茂っています。食の勉強のため、野菜を育て、野菜好きな子にしたいという願いがこめられているのです。野菜畑の向こうには、昨年植えたカキポットのカキが根づき、小さな実をつけていました。秋、カキが実るといいのですが……。あすなろ農園は今年も豊作です。世間では値段が高騰する野菜が、本校は無農薬で安価、しかも「野菜を買ってください」とあの瞳で見つめられたら、買わないわけにはいきません。やはりあすなろの子たちは、最高の営業マンなのでしょう。5年生は、バケツ稲にも挑戦しています。今は水が必要な時期、水を補給しながら、伸びろ伸びろと葉をさすっている姿が印象的でした。稲自身は「なでられてもね」と迷惑がっているかもしれませんが、その心は伝わっているでしょう。
こんなふうに、本校の庭には、いろいろないのちのやりとりがあふれています。
いのちと言えば6月18日は「豊橋学校いのちの日」です。8年前野外活動の事故で、この日が設定されました。生きる重さを伝えたいとき、どうしても死を見つめざるを得ません。2年生の道徳では、人が不用意に捨てたビニルを食べて死んでしまった動物園のキリンの話を、6年生では、山頂のゴミ問題に命をかけて取り組む登山家の話を熱心に話し合うなど、このいのちに日に向けて、いのちの学習が着々と繰り広げられています。雨男
どうも彼は「雨男」らしい。彼とは、本校の運動会主任のS先生。
思えば、運動会全体練習がはじまったゴールデンウィーク明けから、いきなり雨、雨……。雨音を聞きながらの体育館全体練習に、「S先生は雨男じゃないか」とにわかに噂が広がりました。しかし、彼はそんな声に動じません。夜遅くまで、翌日の準備を欠かせませんでした。その熱い思いが、天の神様にも通じたのか、その後は天候も回復、夏の陽ざしの中、練習が続きました。
運動会本番を週末に控えた週間天気予報では、当日は快晴、30度近くなると報じられ、雨どころか、熱中症対策のために、前日に「暑さ対策」のチラシを配布しました。
運動会当日になりました。この日も、彼は早朝から、グラウンドやテント、器具の準備具合はよいかと、確認を怠っていません。一方天候はというと……、快晴のカンカン照りではなく、空一面に雲が広がり、涼しい朝ではありませんか。快晴の空に雲を呼びこみ、気温を下げ、絶好のコンディションをもたらしたのは、まさに「雨男」の神通力だったのかもしれません。
最高の曇り空の下、「入場します」の合図に、運動会が始まりました。
朝礼台に上った彼は、若干その声はうわずり、足も震えています。が、最高の舞台と、最高の空気に包まれて、子どもたちは張り切ります。迫力の応援合戦をはじめ、表情やリズム感豊かな低学年のダンス、元気いっぱい躍動するソーラン踊り、そして、土や汗にまみれた感動のスタンツ等々、子どもたちの素晴らしい演技が繰り広げられました。
運動会後、だれもいなくなったひっそりとしたグラウンドをバックに、先生たちから胴上げのプレゼント。彼は、天に舞い上がりました。そして、感極まり、天からではなく、思わず彼の目から雨が……。やっぱり、彼は雨男なのでしょう。笑顔と忍耐の朝
教室で飼っていたメダカが死んでしまったのでしょうか。5年生の子が、校庭の樹木の根元に穴をほって、お墓を作っていました。また、3年生の子たちはモンシロチョウの卵から幼虫が生まれる瞬間を目撃したと、歓声が上がっていました。こんないのちを愛おしむ子どもたちの日常で、新潟県の児童連れ去り事件をはじめ、いのちが粗末にされる事件を耳にするたび、怒りが募ります。
さて、先日、PTAの方たちによって「あいさつ運動」が行われました。早朝より校門に係のお母さん方が立ってくださいました。また、通学班の後方に立って、子どもといっしょに登校するお父さんやお母さんの姿もありました。校区には、集合場所で我が子と待ってくださる保護者の方もあれば、ゴミ捨ての途中だからと子どもたちの集合に立ち会ってくださっている方もいます。そして、交通指導員の児玉さん、見守り隊や校区の皆さんには、各地点で声をかけていただいています。子どもたちの毎日は、こうして多くの人たちの優しさに包まれて始まっています。
子どもの後ろについて歩いてくださったお母さん、いかがでしたか。朝の支度をひと段落させ、子どもの後を歩き、さらに校門からとんぼ返りで帰路につく朝は、さぞ過酷なものだったでしょう。おまけに、子どもたちは、大人の気持ちは考えず、自分のペースで歩く、まっすぐ歩くわけでない、突然止まってお茶を飲んだりする。本当にお疲れさまでした。しかし元来、教育というものは、子どもの成長をじっと耐えて待つ営みでもあります。教えるプロである本校教職員も、順調にいかなくても、じっとこらえながら笑顔で頑張っています。まさに忍耐と根気の日々です。
優しくされた記憶
ぼくが校外学習の遊びが楽しみなことは、一年生といっしょに
遊ぶことです。
理由は、一年生と一時間半の間、ずっと遊ぶことはめったにな
いし、小さい子と遊ぶことは少ないし、ぼくが一年生のときの6
年生には、たくさん遊んでもらって楽しませてもらったので、
ぼくも一年生とたくさん遊んであげて、楽しませてあげたいです。
6年生の日記を、担任の先生に読ませていただきました。右の作品は、校外学習の時のものです。
入学式、1年生を迎える会と、6年生は、1年生と交流を積み上げてきました。1年生にとっての彼らは、いつの間にか頼りになる、かけがえのない存在になっていました。
6年生の彼を支えていたものは何でしょうか。
それは、日記から、5年前の体験だったことがわかります。おそらく、あのころ、交流のイベントはもちろん、日常の通学班の登校やわんぱくタイムでも、6年生に十分過ぎるほどのお世話をしてもらったことでしょう。彼らの優しさには、今はもう高校生や社会人となってしまったお兄さんやお姉さんの存在が原体験にあったのです。
伝統は目に見えません。が、「良友」の精神は、子どもたちの心の奥底に脈々と流れ続け、その後形や姿となって現れていたのです。そう、今の1年生の子どもたちも、最上級生になったとき、今日の日のことが甦り、日記を書いた子のように、自身を突き動かしていくに違いありません。
まさしく伝統のちからです。一歩一歩 歩もう
22日 今年も、おやじの会のみなさんによる田植えのイベントが行われました。この日は、初夏の田園風景の中、さわやかな風が水面を揺らしていました。南陽中学校に程近い田んぼには、50名近くの子どもたちが集まりました。
「苗をいたわること」、「根が張るように植え込むこと」など、伊東さんのお話を聞いたあと、子どもと大人が交互になるように、畦に一列に並びました。目印のついたロープが水面に張られ、その目印の場所に苗を植えていきます。
拡声器から声が響きました。その指示のもと、各自一斉に、足を田に踏み入れると、水の冷たさと泥の感触に歓声をあげる子どもたち。さあ、田植えの開始です。
外野からは、「列を乱すな」「カエルに気をとられるな」「植えた苗を踏むな」と厳しくも温かいヤジが飛び交います。このことばを心に染みこませ、子どもたちは、泥に足をとられながらも、次の一歩を踏み出します。
歩幅も、脚力も違う、子どもと、親、そして先生が、同じペースで歩む、優しくしかも確かに苗を植えこんでいく姿は、教育のめざすところと共通しているように思います。苗たちは、その光景を喜ぶかのように、さわやかに風になびいていました。
やがて初秋には、厳しい暑さや猛烈な風雨を乗り越えて、この一帯が黄金色の絨毯に染まり、実りの時を迎えるでしょう。学校現場も、子どもたちに、さまざまな学びの実りが訪れるよう、歩んでいきたいものです。
おやじの会のみなさん、ありがとうございました。成長のすき間
校長室から見えるメタセコイヤとイチョウの若葉のすき間から、陽光が差しこんできました。すがすがしい初夏の空気に、学級をのぞくことにしました。
1年生の教室では、大きなカードに、自分の名前を書いていました。「入学してはじめて書く」という名前。大きい文字や小さい文字、震えた文字や曲がった文字、また用紙の余白が広いなど、バランスは気になりますが、その一生懸命さが伝わってきます。
2年生から6年生は、お話タイムがスタートしました。第1回目のテーマは、「今年、がんばりたいこと」「お話タイムで話し合いたいこと」「自己紹介」等、1年のスタートにふさわしいものが多いようです。しかし、まだ学級開きから間もない今、昨年のような活発な話し合いは見られません。新しい仲間の様子をうかがうように、沈黙が広がります。意見が出ないので、司会者もどうまとめていいのか戸惑っています。全体的に重苦しい空気が漂っていました。
しかし、それでいいんだと思います。この「うまくいかない」ことが、学級の課題になり、それをみんなで克服していくことが、成長につながると思うのです。
校長室からの見える若葉も、まばらです。そのすき間から青空が望めます。1年生の名前の余白も、他学年の話し合いの沈黙も、いわば成長のための大切なすき間なのです。
夏になれば、若葉で覆われ、優しい木陰を作ってくれる樹々のように、子どもたちもきっと、成長のすき間を埋めるべく、頑張って取り組んでくれるでしょう。そう思うと、むしろそれらは、希望や楽しみのように、感じてならないのです。散り落ちたサクラを眺めて
サクラがすっかり散り落ちて、いつもとは違う風景の中で、新しい年度が始まりました。
今年度は、6日、102名の子どもたちの入学式が行われ、会場の体育館が満開のサクラのように華やかになりました。彼らを迎える6年生も、最高学年の自覚の中で、1年生の心がさらに元気になるようなパーフォーマンスを、寸劇や歌で披露してくれました。
振り返れば、春休み中、事前に学校の下見をして気持ちを馴らそうと、新入学生を連れた親御さんにも出会いましたし、新しい教室で、子どもたちを気持ちよく迎えようと、窓や床を拭き、机を整頓する先生の姿もありました。それぞれの人たちが、はじまりの時に備えて、しっかり準備する光景に、心が動きました。
サクラは散ってから、3か月後ぐらいには、早くも次の花芽をつけるそうです。しかし、その花芽は、いったん冬眠し、暖かくなるのを待って一斉に咲くと聞きました。サクラが一斉に咲けるのは、早く準備し、その時をじっと待つ時間があるからなのでしょう。
教育も未来への準備の営みです。将来、子どもたちの人生に、満開のサクラを咲かせるように、一つ一つ準備をしていこう、サクラの樹を眺めながら、そんなことを思いました。今年度も、どうぞよろしくお願いします。
祝卒業
最後に歌った歌は、羽田裕里江先生の新曲「つぼみ」でした。