日誌

全校

眼鏡 校長だより

台風が過ぎ去って

 

超大型といわれた台風21号によって、休校になりました。いつもの主役の子どもたちの歓声も、この日ばかりは強風のうなりにとってかわりました。校庭には、ぎんなん、まつぼっくり、くぬぎの実などが、まるで天からばらまかれたように、一面に散らばっています。また、折からの強風は、葉や実だけではなく、枝々をへし折り、運動場の真ん中あたりにも、松やくすのき、いちょう、プラタナスの大きな枝が落ちていました。休校になったその日、先生たちは職員作業。木々の残骸、実を集め、あっという間にリヤカーやコンテナが、いっぱいになりました。台風一過の快晴の空を見上げながら、みんなで行う和気あいあいの心地よい作業に、笑顔が広がっています。

さて、翌日、3年生は、アークリッシュの総料理長を講師にお迎えし、味覚の授業を行いました。コック帽をかぶった神妙な子どもたちでしたが、味見体験をなると目を輝かせいつもの顔に戻りました。味には「あまい、すっぱい、にがい、しょっぱい」の4種類がある。甘いものやしょっぱいものばかり摂取していると、体によくない。そんなお話もあり、苦みや酸味に、顔をしかめている子もいました。私は、彼らを見ながら、これは人が生きていくこともつながると思いました。学校生活において、うまくいくことばかりでなく、ほろ苦さや酸っぱさを味わうことも大切な勉強ではないでしょうか。

外を眺めると、本校の大樹が、空に向かってそびえています。この立派なたたずまいも、厳しい風雨の度に、大切な枝葉をそぎ落とすという、辛酸をなめながら、生きぬいている誇らしげな姿に見えます。

おや、昨日の強風の音を上回るような、子どもたちの歓声が聞こえてきます。そう、今日は、1年生の芋ほり体験。今年は豊作なのでしょうか。

眼鏡 校長だより


  ご褒美

 

清水寺は、平成の大改修中です。「清水の舞台」で有名な本堂は、工事用の木組みと風雨をしのぐシートにすっかり覆われています。それでも、さすがに世界遺産。修復中であっても、修学旅行生や海外からの観光客、そしてツアー客で、寺へと続く参道は、人でいっぱいでした。

 本堂に立ちました。シートに覆われた舞台であっても、シートの間から望む景色は壮大で、紅葉の頃はさぞ絶景であろうと、たやすく想像ができます。

 添乗員さんがこちらに走ってきます。「お水とりができそうです」との声。舞台の下には、「音羽の滝」があります。三つに分かれ滴り落ちる水を飲めば、「学業」「恋愛」「健康長寿」が叶えられると言われ、ここがひとつのスポットになっています。常に長蛇の列ができ、修学旅行生は、時間的なことからほとんどが回避、今年も、添乗した学校ではまだこのお水にありつけていないそうです。

今日はたまたまよい時間帯だったのでしょうか。行列の人の数がすくないと判断し、福岡小の子どもたちを列に加えました。子どもたちは、落ちてくる水を柄杓で受けながら、それぞれ願いをかけています。

 かれらが並んで待つ姿を見て思い出しました。法隆寺でも、大仏殿でも、平等院鳳凰堂でも、いつも速やかに並び、ガイドさんの話を真剣に聴き、メモをとる姿がありました。そんなひたむきな姿を、神様や仏様は見逃していません、お水とりは、そのご褒美だったのかもしれないと思えてなりませんでした。

 お水に託した願い、ただ願いは願い、それが実現するかは別の話です。清水の改修工事が時間をかけ、ひとつひとつ積み上げ完成に至るように、子どもたちにもたゆまぬ精進が必要です。「清水の舞台」ではありませんが、子どもたちの未来に、夢を実現する、晴れ舞台が待っていてほしいと祈うばかりです。

 

 

 

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  高畑郁子氏の絵に寄せて

 

本校玄関の壁に、巨大な日本画が飾られました。これは、校区在住の画家高畑郁子様から寄贈されたものです。その絵は、「水辺の植物」と題し、睡蓮か水芭蕉を題材にしたのでしょうか、朱色をベースに、水生植物が浮き上がるように描かれ、玄関の空気を一変させていました。

 日本画は、「岩絵の具」といわれるもので描かれます。その素材は、文字通り岩石で、孔雀石、ラピスラズリ、サンゴ、メノウなど鉱石を砕いて作った顔料だそうです。絵の持つ重厚感、深み、気品は、石そのものにある特性が表れているのかもしれません。

 本校へお越しの折は、ぜひご覧ください。

 さて、本校の子どもたちに目を転ずれば、和太鼓部の演奏も、この日本画のように、日本文化の趣きを醸し出しています。今は、10月のお祭りの祭礼に披露するもので、地元の講師の方をお迎えし、練習に励んでいます。多目的室をのぞくと、普段とは別人の引き締まった表情と真剣なまなざしで、先生の激励に応えるべく、力強くバチを操っています。思えば子どもたちの資質も、原石のごときものです。岩を砕いた顔料から見事な日本画が生まれるように、彼らの演奏も磨かれることで、宝石のような深い輝きを放つことでしょう。

 

前期が終了します。教育は、子どもの中からその子らしさという宝石を掘り出す営みでもあります。が、得てして、その自分らしさというものがなかなか本人ではわからない。通知表を見、前期をふりかえって、親子でお子さんが最も輝いたそのときを切り出してほしいと思っています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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尾行をしました

 

あすなろ学級の子どもたちが、待ちに待った校外学習に出かけました。

午前は、駅前のプラットで、表現の体験学習を行い、午後は、美術博物館で絵画について学ぶというものです。しかも、その行程は、自分で渥美線の切符を買うとか、飲食店で食事をするとか、渥美線や市電に乗るマナーを学ぶなど、社会勉強の宝庫でした。私は、たまたま午後から名古屋への出張がありましたので、午前は子どもたちの様子を観察することにしたのです。

せっかくの緊張感、わくわく感、自立心を育てる場を壊したくありません。わたしは、子どもたちに気づかれないようにと、まるで刑事のように尾行することにしました。あるときはホームの柱の陰からこっそりと、またあるときは隣の車両のから覗くようにして、さらに食堂の片隅でうどんをすすりながらと……。

子どもたちは立派でした。

混雑した渥美線の車内でも、静かにじっと我慢して立っていました。

自分で注文したラーメンの支払いをし、店員さんから食事を大事そうに受け取っていました

市電の代金を確認し、背伸びをして自販機の投入口にお金を入れ、切符を購入していました。

子どもが成長するのは、大人の手から離れた時です。「手はかさないが、見逃さない」そんな適度な距離感が子どもの成長には欠かせない。今回の尾行を通して改めて気づきました。ただ尾行をしている私に対して、どうも通りがかりの人の目が怪しい。不審者と思われていたかもしれません。不審者として通報されなくてよかった、今となって胸をなでおろしています。

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トントントン

 

 その教室は、授業が終わろうとしていました。今日学習したワークブックをやり終えた子から、順番に提出することになっているようでした。ひとりができ、またひとりができと、教卓の前には自然に行列が生まれていました。半数ぐらいすぎたところでしょうか。私ははっとしました。たくさんのワークは乱れることなくきれいに積まれているではありませんか。

 しばらく様子を観察してみることにしました。無造作に置く子もいます、なかには、放り投げるように出す子もいました。けっしてつねにそろっているわけではありません。しかし、乱れそうになると、その都度気がついた子がワークの山を抱えて、トントントンとそろえています。だれともなく手をさし伸べるその姿にすっかり感心してみとれてしまいました。

この整理整頓の姿は、クラスの仲間に注ぐ、一手間かける優しさでもあったのでした。

 教室を離れ、再び廊下を歩き出しました。「整理整とん」「スリッパをそろえよう」などポスターに囲まれたトイレのスリッパ、用務員さんによる手作り雑巾かけの雑巾、いずれも気持ちのよいほどにきれいに並んでいます。ここにも、だまって動き出している「だれか」がいるのです。夏が行き、実りの秋を迎えました。さわやかな秋風に優しさの穂が揺れているようでした。