日誌

2017年7月の記事一覧

眼鏡 校長だより


 とびっきりの笑顔

 

夏休み第一日目泳力補充が行われた。泳力1mからの、いわゆる泳ぎが苦手な子22名が集まった。表情の硬い子と笑顔の先生の組み合わせはやや違和感があるが、これからはじまる物語に期待が高まるばかりだ。

 プールに広がるさまざまな練習の風景、ここまでここまでと自らが道標になり呼び込む先生、手本を示し、いっしょに泳ごうと意志表示をする先生、道具を使って子どもを引っ張り、泳ぐ感覚を養おうとする先生、さまざまな手法でこの子に泳力をつけようとする先生の姿がある。子どもたちは、その熱をしっかりくみ取って、必死に水面を滑り、知らぬ間にその距離は伸びていく。そして、先生の激励の声が最高潮に達したそのとき、水中から飛び出したその顔はとびっきりの笑顔であった。「泳げた!」周りからも拍手。教師の仕事の醍醐味は、この瞬間にある。15人を超える子たちが、25mを泳ぎ切ったと聞いた。25mは届かなかったが、格段の進歩の子もいる。ドラマも子どもの数だけある。

 プール横では、明日に迫ったフェスティバルの準備がPTAの人によって始まった。掃除をしたり、テーブルを運んだりと、猛暑の中汗びっしょりである。子どもたちの笑顔と大人たちの汗の美しさがまぶしい夏休みのはじまりであった。

 

 

眼鏡 校長だより

チャレンジの夏に

 

七夕を過ぎ、セミの鳴き声が聞こえ始めました。校庭を歩くと、所々にセミが抜け出た穴らしきものが目に入ります。セミは幼虫として何年も地中で過ごし、わずか1週間ほど外の世界で鳴き尽くします。セミの一生のほとんどは、地面の中だということです。あの一途でひたむきな鳴きぶりには、そんな下積みの世界があることを忘れてはなりません。

プールでは、そんなセミの鳴き声と暑い陽ざしを浴びながら、元気いっぱい泳ぐ子どもたちの姿がありました。4年生の授業でした。「25メートルを泳ぎ切る」「クロールも平泳ぎもマスターする」……教室に掲げた水泳のめあてをめざし、6つのコースに分かれ、25メートルを泳ぐというものでした。先生のホイッスルを合図に泳ぎはじめた子らは、トビウオのようにすいすい進む子もいれば、水しぶきばかりでなかなか前に進まぬ子もいます。「がんばれ」「まだいけるぞ」先生の激励もむなしく、あえなく途中で立ってしまう、そんな子もまだまだいるようでした。

確かに泳ぎが苦手な子にとっては、25メートルは遠い道のりです。が、人がものごとを成し遂げるためには、セミが長く闇の時間を過ごすように、うまくいかない時間、失敗を繰り返す時が必要ではないでしょうか。そして、その苦しい闇が長ければ長いほど、成功したときの喜びは大きく、そこで身につけた自信は計り知れない。必ずや将来生きてはたらいく原動力になっていくに違いありません。

 目標を達成できず、下を向いてプールサイドを歩くあなた、まだ諦めてはいけません。苦しい歩みは自信や感動のエネルギーを蓄える時間です。さあ、もう一度チャレンジしてみてください。

 いよいチャレンジの夏休みです。

 

眼鏡 校長だより


七夕に寄せて

 

「じゃあ、将来、何になりたいの」と登校中の子どもに聞いてみた。「消防士か、警察官」ときっぱりと男の子、次の女の子は「ケーキ屋さん」と少し考え笑顔で答えてくれた。今日は、七夕集会がある。学校までの道中、七夕の話題の花が咲いていた。

 七夕集会を支えてくれたのは、保護司会、民生委員、更生保護女性会、老人会、PTA等地域の皆さんだ。前日は、子どもたちに配る七夕飾りの竹を伐採しに、出動してくださった。体育館横に届いた大量の竹の山を見ると、蒸し暑さとヤブ蚊と闘いながら、竹やぶに入り何本もの竹を切り出したご苦労が容易に想像できる。そして今日は、その竹山から七夕飾り用の長さに切り出し、さらにそれに飾りつけをする作業が市民館で待っている。市民館の部屋には、ところ狭しと、短冊をはじめ輪飾り、星、ちょうちん、吹き流しの手作り飾り、そして配布するポケットティッシュの山が並び、作業にあたる方たちの熱意が伝わってくる。

 七夕集会は、あいにく出張で私はその様子を見られなかったが、七夕飾りを前にして、子どもたちの笑顔があふれていたと聞いた。子どもたちは、短冊にどんな願いをかけたのだろうか。夢が生まれ育つところには、必ず大人の存在がある。短冊に願いをかけながら、地域の皆さんへの感謝を忘れないだろう。

 今週は、3年生が警察官だった方による自転車教室、4年生が市職員による「水」の環境学習、5年生がいのちを学ぶ「赤ちゃん」ふれあい体験、6年生がプロのホテルサービスに学ぶ出前授業と、さまざまな部門、業種で、専門性をもった大人が来校し、経験という財産をもとに、体験を交えて教授してくださる。「体験が子どもの育ちに大きく影響する」と言われる。さまざまな大人の存在が、福岡っ子の未来を触発してくれると願うばかりである。