昭和23年8月末、東海北陸軍政民間情報教育課長ダグラス・ジョンソンは名古屋に着任するや、学校統合を断行する。未だ校地の決定をみない本校は、この旋風により統合しなければならない情勢となった。この時、豊橋市長 大竹藤知 氏、県教育委員長 神野太郎 氏、市会議員 船井健一 氏等が軍政部へ本校の情勢を具申し、独立を懇請する。その結果、敷地が決定すれば独立を認めるとの回答を得るにいたった。
昭和23年9月15日、第2代 匹田和夫 校長のもと、南部第二中学校の解散式を行う。この結果、南部第一中学校と南部第二中学校が統合し、南部中学校が誕生した。しかし、校区の南端からの通学は不便極まりなく、地元民の「地元に中学校」を切望する声は日増しに高まることになった。しかし、ダグラス・ジョンソン通達「敷地の決定」は不可欠だったため、大崎・船渡・大清水・植田・野依の各町からの候補地から一カ所に絞るための会合では喧々諤々の議論となり一致点を見いだせないでいた。時の大竹豊橋市長、県会議員、各町選出の市議会議員の尽力で、植田町的場の候補地に決定し、23年12月3日に敷地問題も円満に解決した。
昭和24年2月1日、植田小学校を会場として地鎮祭挙行
昭和24年 2月13日着工、校地の約半分は水田であったため、渥美線西側の土砂を運び埋め立てを行った。これはすべて校区民(当時総戸数1400戸)の奉仕活動で行われたのである。一戸あたり3日間の勤労奉仕を課し、北風が吹き荒れる中、時雨が降る中、泥まみれになってトロッコ押しの作業、その中には子を背負った母親の姿も多数あったと記録に残る。
昭和24年3月15日、第三校舎建前
この頃から建築委員会では、校区民の民意を反映させた校名の募集を行う。その中から「南稜」「豊南」「梅南」の三候補名に絞り、豊橋市当局に校名の選定を要望した。その結果「南稜」と決定した。
告示 豊橋市告示 第15号 本市議会において中学校設置の議を経て、昭和24年3月31日、設置する中学校を左記の通り決定する。 昭和24年3月31日 豊橋市長 大竹 藤知 校名 豊橋市立南稜中学校 位置 豊橋市植田町字的場50番地 |
昭和24年4月1日 豊橋市立南稜中学校開校