郷土の偉人
① 「庄屋」 源吉
 高師小学校の西側にある円通寺の門を入ると、三つの碑がたっています。その中央、「義人庄屋源吉頌徳碑ひ」と書かれているのが、高足村庄屋源吉の碑です。
この碑は、昭和36年3月21日、高師校区の人々によってたてられました。
庄屋源吉は、宝暦2年(1752年)に高足村に生まれました。そして18才という若さで村の庄屋になりました。源吉が20才のころ、雨がほとんどふらず村は大変なきょう作になりました。そのため、農民たちは非常に苦しい生活をおくらなければなりませんでした。 源吉は吉田領内の庄屋たちと相談し、年ぐをへらしてもらうことを願い出ることにしました。源吉が役所に願い出たが、役人はこの願いを聞き入れず、それどころか「ろうに入れるぞ。」とおどしました。そのため、ほとんどの庄屋たちは願いを取り下げました。 しかし、源吉はくじけませんでした。「私は庄屋です。みなさんが困っているのをだまって見ていることはできません。」と言って、みんなが止めるのも聞かず、何度も何度も役所に願い出ました。「死けいにするぞ。」と言われても、源吉は「死をおそれてこのお願いができましょうか。」と言い切りました。そのため、源吉はとらえられ牢送りとなってしまったのです。その時の吉田藩の藩主、松平信明は、源吉のあまりの主張に役人を使い稲のでき具合などを調べさせ、年貢138石をへらすことにしました。
 しかし役所の命令を聞かなかった源吉は、死けいにされることが決まってしまいました。 村人たちは、自分たちのためにここまでしてくれた源吉の命を救おうと、多くの寺のおしょうたちに必死でたのみこみ、助けてくれるように願い出ました。そのかいあって、5年の後、源吉は死けいをまぬがれることになりました。しかし5年もの長い間牢屋ぐらしをしていたため、病気になってしまいました。そして安永4年(1775年)2月2日、25才の若さでなくなってしまったのです。
その後、村人は源吉の徳をたたえ、円通寺で毎年7月1日に施餓鬼供養をいとなむようになったと言われています。源吉の墓は、ひっそりとたっています。
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② 吉原弥次右衛門と祐太朗

 吉原氏は、芦原新田の開拓に功績のあった家柄である。 芦原は、元は梅田川の河口の流れの中にあって、沼のような状態で葦が生い茂り、荒れた沼地のようなところであった。

 寛永年間(16241643)、時の吉田藩主は、この地を開拓しようとしたが、たびたびの津波や洪水で失敗し、その後、ながらく放置されたままであった。明暦2年(1656)、遠江の国の人、吉原弥次右衛門重次は、一族と相談して、藩主小笠原忠知の許可を得て、この土地の開拓に着手した。しかし、この土地を入会として共有している村々の大反対に合い、数々の妨害も受けたうえ、津波にもあって、第一次の開拓事業は失敗した。

 第2世弥次右衛門が、その事業を受け継ぎ、いろいろな妨害を除きながら、新しい川をつくり、古い川を埋め、たびたびの堤防の破壊にも屈せず、元禄3年(1690)、35年ぶりに熟田30余町歩、畑20町歩を完成させた。この田畑が芦原新田と名付けられ、ここに芦原村が始まったのである。
 吉原祐太朗
 吉原祐太郎氏は、弥次右衛門の子孫に当たり、万延元年(1860)芦原村の生まれで後に、政界に出て愛知県会議員となり、続いて衆議院議員を2期勤めた人である。この地方においては、渥美電気鉄道初代社長などを歴任し、東三財界の長老として、また、愛知の政界財界の重鎮でもあった。

 特に、土木水利事業、農・養蚕業、初等教育等々の推進に大きく貢献した人、常に先を見通した構想をもって事業に当たった人として、たたえられ語りつがれている。(校区のあゆみ高師より)

郷土の偉人
③柴田文一
柴田文一

現在の農業協同組合(JA)は、農村の振興を目指す組織として、大正初年に発足した産業組合から、戦時中の農業会、戦後の農業協同組合と、時代と共に変化してきたが、その農業協同組合の前身である高師産業組合の生みの親が、柴田文一氏である。

柴田文一氏は、明治19年(1886)藤並村の生まれである。氏は、村役場に勤めるかたわら、土木委員として大井用水工事の推進をはじめ、早くから産業組合の必要性を説き、その設立に力を注いだ人である。そして、産業組合が設立の運びとなった大正2年(1913)、初代組合長となり、以後10年間自宅を事務所として提供するなど、組合の進展に大いに貢献された。そして30年にわたり、組合長理事の要職も勤めるなどの実績に対して、自治産業功労者として表彰を受けられたのである。

氏は、特に貯蓄の増進や組合発展の具体策の指導に尽力されたと、尊敬をもって語り伝えられている。

後年、組合敷地の一角に氏の記念碑が建立されている。(校区のあゆみ高師より)

郷土の偉人
④彦坂幸太郎
彦坂幸太郎

「雲に聳える段度山、波は静けき渥美湾、外に万里の海を見て、内に沃野の富を占め、流れも清き豊川や、矢作大平澪長し」の歌詞で歌われるこの歌は、「三河男児の歌」といい、師範学校に学んだ三河出身の人々に声高らかに歌われ、また、卒業後教員となった各先生方を通して三河の各地に伝え広められ、歌う人々の心意気を奮い立たせた歌である。この歌詞の生みの親が、彦坂幸太郎先生である。

氏は、明治6年(1873)、渥美郡高根村(現在の西七根町)に生まれて後、高師本郷の彦坂家の養子となった。

氏は、明治28年(1895)愛知県第一師範学校(現在の愛知教育大学の前身)を卒業し、豊橋のいくつかの小学校教員を勤めている。

さらに明治38年(1905)、東京高等師範学校(現在の筑波大学)に学び、卒業後、母校である愛知県第一師範学校の教員となった。この「三河男児の歌」は、その頃の作で、歌詞は10番まであり、その内容は、大変格調が高いと評され、親しまれている。(校区の歩み高師より)