学校の歴史
「鎮守の森を中学校に」
昭和22年 | 「六・三制の発足」 | |
昭和23年 | 「豊岡中学校新設の動き」「東部中学校」は、「北部第二中学校」と合併し、青陵中学校が開校した。しかし、父兄から岩田地区への中学校誘致の強い要望がわき上がり、建設委員会が結成され、中学校新設に向けて準備が始められ、校区の中心にある田尻の八幡社の境内に誘致することになった。 ところが、この八幡神社は300年前の1647年に吉田神社から奉遷されたというずいぶん歴史のある神社であった。、神社庁からの強い反対があったが、現在地に建設することに決定された。 また、市が極度の財政難であったため、市から建設費の地元立て替えの要請があり、650万円の費用を地元が立て替えることによって工事が始まった。 | |
昭和23年 ~ 昭和24年 | 「豊岡中学校開校」への奉仕作業大木の伐採や整地作業をはじめ、塀の石積みの下に10数匹のまむしがいたり、本殿の床下にはタヌキの糞がたくさん見られたりと大変な難作業だっようです。校区の人々にも、運動場作りの勤労奉仕が各町割り当てられ、毎日続いていたようです。中には、子どもを背負ってくわを振っている母親もいたそうです。現在ならばブルドーザーで容易にできる整地も、当時は整地費もなく勤労奉仕に頼る外なかったようです。 | |
昭和25年 | ![]() 「豊岡中学校開設」4月1日、2・3年生が青陵中学校より編入し、生徒数579名、12学級で豊岡中学校がスタートした。しかし、学校備品も教具も少なく不自由なことが多い上に、八幡神社境内だった運動場は、水はけが悪く、雨の日はひどいぬかるみになってしまう為、その後運動場を掘り返し整地したり、木の根を取りのぞくのが、職員生徒の仕事となった。 | |
![]() 「青陵中学校から分かれて、木の香新しい新設校に移ってきました。開校前に行われた引越しの日は、良い天気だったように思います。机、腰掛け、その他の学校の備品を生徒とともに持って、青陵中から歩いて運びました。その時の長蛇の列が目に浮かびます。重い物は牛車などで運んだように思いますが、楽しい引越風景でした。緑に囲まれた静かな田園の中の新校舎に入って、窓からパノラマのように美しい風景を眺めたとき、思わずきれいだなと言って喜びました。 大矢重郎校長先生をはじめ17名の職員で、勤勉な生徒さんとともに、新設校建設の希望に輝く日々がはじまりました。」 ![]() 「体育大会をめざし、校庭のトラック作りが全校生徒の手で始められ、1周150mの走路を全校12組別に区切り、分担をして各組競って作業に汗を流した。作業はくわ、備中、とうぐわ、つるはしなどで50cm近く土を掘り出したが、木の根があるので大変な仕事であった。掘り返した土はふるいにかけより分け、石、石炭ガラ、細かな土の順に穴に埋め、なんとか走路を完成することができた。」 |
校区の方々の熱意と協力・奉仕によって開校したのが豊岡中学校なのです。
マンモス校豊岡中の分割のどかな町から市街地へ
![]() 昭和30年代の写真を見ても、学校のまわりがのどかな田園地帯にしか見えないのです。昭和35年度の卒業生も「運動場の前には田園が続き、飯村町が一望に見渡せたものでした。」と当時を振り返っています。(11回卒業生:昭和35年度) 当時の豊岡校区は水田と果樹園の広がりの中にあちらこちらに数戸ずつの農家が点在し、その間を曲がりくねった農道が連絡しあっていたような状態でした。豊橋の市街地から田畑を隔ててぽつんと存在するこの校区には市街化の波が届かなかったんです。それが昭和40年代に入って多米峠の有料道路の開通、向山の市民文化会館、豊川用水の全面通水などの施設の整備とともに市街化の波が押し寄せてくることになるのです。 ![]() また、この事業の中で、農業のためになくてはならなかったため池も水神池と空池の跡地は13.8haもの広さの岩田運動公園に、岩鼻池は600戸の県営岩田団地に大きく姿を変えこの昭和40年代の区画整理によって、豊岡校区は本当に大きく変わり、昭和57年には、市電の運動公園までの路線も開通しました。農業地帯が住宅地になったばかりでなく交通機関の便が良くなったり、いろんな店もたくさんできたりわずかな期間に非常に大きく変化してきました。 これだけ大きな校区の変化により、校区の人口増加が生徒数を急激に増加させてしまいました。 ![]() |