「銅鐸の国」開催にあたって その3
「銅鐸の国」開催にあたって その3
【銅鐸発見地の状況】
銅鐸が発見された場所には昭和24年に前芝中学校校舎が建設され、当時の面影はみじんもない。銅鐸出土地点は現在の校舎のわずか南で、植え込みとなっているところである。この前芝中学校の周辺は今は塩見という字名ではあるが、昭和27年度の耕地整理事業完了前は字「塩見塚」と呼ばれていた。中学校の西150mにある前芝共同墓地の場所には、かつてその名の起こりとなったと思われる「塚」があったそうだ。字塩見塚と字松間の畑は、かつては一帯の砂丘で、微地形分類上でも「砂レキ洲」となっている。発見当時以前には所々に小さい砂山が残っていたという。<1997年(平成9年)発行の「穂の国小坂井町かわら版」第6号より> 「銅鐸の国」開催にあたって その4に続く